今日は8月8日、土曜日です。昨日は夕方、ブルーノートへ行き、ニーナシモンを聴き、そのあと木馬に寄り、8時に青い海公園の花火とねぶたを観て帰りました。
今朝は4時に起き、6時15分に稲葉さんに軽トラを借りに行き、風晴さんを迎えに行き、7時5分に七和のりんご園に着きました。現地ですでに柏谷先生が待っていて、そこで薪になるりんごの玉切り材を軽トラに積み、七和の福祉プラザで降ろしました。もう一回積み降ろしして、8時少し過ぎに作業は終わりました。あとは、風晴さんを送り、浪館の角弘スタンドで給油して、稲葉さんに軽トラを返して、終了となりました。
今日は午後から温暖化防止推進委員の研修会です。今日からはお盆休みで、16日まで執筆に専念します。
今日の子規歳時は、「秋立つとひとり上野の森に対す」(明治29年)です。
今日の魯迅箴言は、箴言365日の74日目「歴史書には、中国の魂が記してあり、」です。
(原文)
历史上都写着中国的灵魂,
指示着将来的命运,
只因为涂饰太厚,
废话太多,
所以很不容易察出底细来。
正如通过密叶投射在莓苔上面的月光,
只看见点点的碎影。
但如看野史和杂记,
可更容易了然了,
因为他们究竟不必太摆史官的架子。
(拼音)
(訳文)
歴史書には中国の魂が記してあり、
将来の運命を指し示しているが、
ただ分厚い修飾や無駄な話が多すぎるため、
真相が見えづらい。
まるで茂みを通じて、苔の地面に射し込む月光のように、
砕け散った灯りが点々と見えるだけである。
ところが、民間の史書や雑記を読むと、
かえってわかりやすい。
というのも、その書き手たちは結局、
さほど史官ぶって書く必要はなかったからだ。