魯迅箴言日記 2022/06/25 次韻して謝する新茶の絶句かな(明治34年、1901年)

 今日は6月25日、土曜日です。今日の予定は、日課をやることと、全労済の西部地区共済会のレクリエーションに参加することです。森田の農園でさくらんぼ狩りをして、そのあと廻堰の鶴橋温泉で昼食と温泉に入ってきます。8時15分に家を出て、バスで現地へいき、25人の人たち(地区共済会の加入者、青森中央学院大学の中国留学生)とバスの中、温泉の大部屋で交流しました。山東省、天津、黒竜江省出身の留学生でした。共済会の加入者は全員高齢の人ばかりでした。彼女たちに何かしてあげられることがないのか、少し考えさせられました。

 今日の子規歳時は、「次韻して謝する新茶の絶句かな(明治34年、1901年)」です。

 次韻;他人の詩の韻字と同じ韻字を用いて作詩すること。また、その詩。
 新茶;①新芽を摘んで製した、その年の新しい茶。香気が殊に高い。はしりちゃ。夏。〈日葡辞書〉↔古茶。 ②(元禄時代の語)初めて出た遊女。
 絶句;①漢詩形の一つ。4句から成る。1句が五言または七言からなる(まれに六言のものもある)。六朝の民歌に源を発し、唐初に確立、盛唐に至って盛行。 ②話の途中で言葉に詰まること。演劇の台詞せりふや演説・誦読などで、中途でつかえて言句の出ないこと。「突然の知らせに―する」
 今日の魯迅箴言は、箴言130-58「中国の昔の人は、いつもその…」です。

 中国古人,常欲得其全,

    就是制妇女用的乌鸡白风丸,

    也将全鸡连毛血都收在丸药里,

    方法固然可笑,主意却是不错的。

    删夷枝叶的人,决定得不到花果。

 中国の昔の人は、いつもその「全体」を手に入れたがった。

 女性用の「烏鶏白鳳丸」を作るにしても、

 鶏まるごと、毛や血までもすべて丸薬に入れる。

 やり方は笑うべきだが、主意としては悪くない。

 枝葉を刈り落してしまう人は、花も実も得られはしない。