魯迅箴言日記 2022/07/30 形代に卯の年男とぞ書ける(明治29年、1896年)

 今日は7月30日、土曜日です。今日は7時半に起き、日課を丁寧にやり、昼ご飯のあと、川柳の調べをやり、そのあと10月7日の核燃裁判の陳述書に手を加えました。2章までおわりました。あとは明日です。

 今日の子規歳時は、「形代に卯の年男とぞ書ける(明治29年、1896年)」です。

 形代;①神を祭る時、神霊の代りとして据えたもの。増鏡「むつきの中の御有様はただ―などをいはひたらんやうにて」②陰陽師が、みそぎ・祓はらえなどに用いた紙の人形ひとかた。これで身体を撫でて災いを移し、川に流した。夏越なごしの祓の行事として今も残る。ひとがた。なでもの。あがもの。俑。夏。源氏物語(東屋)「見し人の―ならば身にそへて恋しき瀬々のなで物にせむ」③本物に擬せらるべきもの。身代り。狭衣物語(4)「ただあながちなる心の内を哀れと見給ひて、かかる―を神の作り出で給へるにやと」④天下にあがめ据えられた人。文禄清談「天下の御―の人なれば」
[広辞苑 第七版]

 年男;①武家で、追儺ついなの豆打をし、新年に門松を立て若水を汲み、歳徳棚としとくだなの飾付けなどを勤める男。新年 ②その年の干支えとに当たる男または厄年の男。節分の豆まきなどをする。豆男。
[広辞苑 第七版]

 今日の魯迅箴言は、箴言130-93「たとえ浅い水たまりにすぎずとも、」です。

 纵令不过一洼浅水,也可以学学大海;

    横竖都是水,可以相通。

 たとえ浅い水たまりにすぎずとも、大海を学ぶことはできる。

 いずれにせよ、どちらも水だから、あい通じるはずだ。