魯迅箴言日記 2022/12/20 門前の大根引くなり村役場(明治31年、1898年)

 今日は12月20日、火曜日です。今日は川柳の句作をして、午前3時に眠り、8時に起きました。川柳の投句をして、そのあと北狄の原稿と最終校正をして斎藤氏に送りました。11時に古川事務所で風晴さんと待ち合わせして、グリーンエネルギーのニュースレターの作成発送の事務局会議でした。午後1時までかけてどうにか、正会員・賛助会員へニュースレターの発送まで終えることができました。午後は自宅で、編集後記と小説原稿の校正を終えることができました。北狄401号は10人の執筆者による170頁余の増刊号となりました。高校同期で綺羅でよく飲んだ森谷至里君が急性心不全で亡くなり今日が葬式でした。3時に少し遅れて会場へ行き、柴田雅、加賀、柴谷君の顔がみえました。夫人の真知子さんが杖をつきながら気丈にふるまっていました。福士食堂で遅い昼食をとりました。午後5時半から八甲田の巨大風車についての学習会がありました。

 今日の子規歳時は、「門前の大根引くなり村役場(明治31年、1898年)」です。大根の句で有名なのは、小林一茶の「大根ひき大根で道を教へけり」です。村役場も少なくなっています。

 きょうの魯迅箴言は、箴言130-92「私もかつては、今の青年たちと同様に、」です。

 我也曾有如现在的青年一样,

    向已死和未死的导师们向过应走的路。

    他们都说;不可向东,或西,或南,或北。

    我终于发见她们心底里的蕴蓄了;

    不过是一个「不走」而已。

 私もかつては、今の青年たちと同様に、

 すでに亡くなった、あるいはまだ亡くなっていない指導者たちに、

 歩むべき道を訊ねたものだ。

 彼らはみなこう言った。

 東、あるいは西、あるいは南、あるいは北に向かってはならない、と。

 しかし東、あるいは西、あるいは南、あるいは北に向かうべきだ、

 とも言わなかった。」

 私はようやく、彼らの腹の底にある蘊蓄を発見した。

 それはただ、「行くな」ということだった。