今日は2月3日、節分の日です。今日は午前中に三内の生協へ買い物に行き、昼食にラーメンを食べ、午後から2時間、街宣しました。
今日の子規歳時は、「節分や親子の年の近うなる(明治25年、1892年)」です。
子規の父は、40歳で病死している。節分をむかえ、父の年齢に近づいていることを詠んでいる。
今日の魯迅箴言は、箴言130-129「普遍、永久、完全」である。
今日は2月2日、木曜日。朝、9時に出発し、一路佐井村へ。12時50分に竹内自動車で富岡氏と合流。1時半より役場で会議。3時に細川建設、4時に宮川建設で面談。4時半に佐井村を出発。6時にむつ市で焼肉で夕食。青森到着は9時でした。雪道、凍結した道路を注意しながらの運転でくたくたでした。
今日の子規歳時は、「納豆売新聞売と話しけり(明治34年、1901年)」です。
納豆は冬の季語です。納豆売と新聞売の立ち話がおもしろい。
今日の魯迅箴言は、魯迅箴言は、箴言130-128「私はいつも文を論じるとき、」です。
我总以为倘要论文,最好是顾及全篇,
并且顾及作者的全人,以及他所处的社会状态,
这才较为确凿。
要不然,是很容易近乎说梦的。
私はいつも文を論じるとき、最もいいのは全篇に目を通すことで、
そのうえに作者の全人格や置かれた社会状況を見回して
はじめて明確になると考えている。
さもなければ、絵空事を説くことになりかねない。
早いもので、1月はあっという間に過ぎ、今日は2月1日、水曜日です。昨日は、山下さんと佃中学校むかいの居酒屋「さくら」でおいしい酒と肴を食べてきました。食事代1万円(二人で)、往復のタクシー代が5千円でした。店で大浦陸郎さんと偶然出会いました。そういえば、彼の家は店の近くでした。もっと飲みたかったのですが、昨日から今朝にかけて徹夜したせいで、眠くてしかたなかったのです。そのせいで、昨夜は9時に寝て、今朝の7時まで寝てしまいました。二階のパソコンのプリンター接続は順調で、今日も二階の書斎で日課をやり終えました。今日から日課に、小説執筆と川柳研究、中国語勉強を加えることにしました。高浜虚子の「俳句への道」が終わりましたので、今日から子規の「俳句の初歩」に取り掛かることにしました。とても体調もよく、2月になりすべて順調です。
今日の夏井いつき「子規365日」は「如月や雪の石鉄雨の久万(明治25年、1892年)です。如月を「きさらぎ」と詠み、「雪の石雨の久万」との表現は見事です。
今日の魯迅箴言は、箴言130-127「墨で書いた虚言は、」130-127です。
墨写的谎说,决掩不在血写的事实。
嘘で書いた虚言は、血で書いた事実を、けっして覆い尽くせない。
今日は1月31日、火曜日です。今日は午後、9条の会の合同会議です。新報の残りを配布し終え、5時半からの山下さんとの居酒屋会に行きました。
今日の子規歳時は、「寄宿舎の窓にきたなき蒲団哉(明治29年、1896年)」です。
ここで、寄宿舎とは子規が18歳で入寮した、旧松山藩主の常磐会のこと。-
今日の魯迅箴言は、箴言130-126「およそ時弊の攻撃においては、文章とは時弊とともに滅びるものだ。」です。
凡对于时弊的攻击,文字须与时弊同时灭亡,
因为这正如白血轮之酿成疮疖一般,
倘非自身也被排除,则当它的生命的存留中,
也即证明着病菌尚在。
およそ時弊の攻撃においては、文章は時弊とともに滅びるものだ。
というのも、白血球が出来物を腫らすんと同じく、
みずからが排除されずに、その命が残っている限り、
病原菌もまた存在する事を証明しているのだから。
今日は1月29日、日曜日です。今日は、朝から雪が強く降っています。昨日から50センチも降りました。新雪で雪藪に入るとすぐにぬかります。だから、車は車庫にいれたままです。除排雪は来ません。家でおちついて日課の勉強三昧です。資本論・経済学関係だけでも、マルクス「資本論」、斎藤幸平「カールマルクス資本論、人新世の資本論」の2冊、高橋洋一の「戦後経済史は嘘ばかり」、岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」、5科目を勉強し、このほか漱石「三四郎、虚子「俳句への道」、角田光代「笹の舟が海をわたる」、高木仁三郎「プルトニウムの恐怖」、核燃関係では「続下北半島核景色」に高木仁三郎「核燃料サイクル施設批判」の11課を毎日読み、「魯迅箴言日記」と「カバのため息」の二つのブログで、「夏井いつき子規365日」、「論語」、「魯迅箴言130日」の勉強も続けています。合計14課の日課をやり続け、小説を書き、川柳を詠んでいます。
今日の子規歳時は、「外套を着かねつ客のかかへ走る(明治30年、1897年)」です。
外套も着かねつ飛出したのは、何故か。客とはだれか。気になるところです。
今日の魯迅箴言は、箴言130-124「悲劇は、人生の価値あるものを破壊してみせ、」で。す。
悲剧将人生的有价值的东西毁灭给人看,
喜剧将那无价值的撕破给人看。
讥讽又不过是喜剧的变简的一支流。
但悲壮滑稽,却都是十景病的仇敌,
因为都有破坏性,虽然所破坏的方面各不同。
悲劇は、人生の価値ある物を破壊してみせ、
喜劇は、その価値なき物をひきさいてみせる。
風刺もまた、手短にした喜劇の一支流にすぎない。
しかし、悲壮も滑稽も、みな十景病の仇敵である。
なぜなら矛先は異なっているが、いずれも破壊性をもっているから。
今日は1月28日、土曜日です。日課をやり、工藤内科クリニックで健診を受け、血糖値がわずかに改善したのを気をよくして、議会報告会の街宣を今年初めて行いました。そのあと、3時からのおぐまひと美議会報告会に出ました。5時半にもどりましたが、あちこちで車が止まってましたが、私の車も停車、車庫入れの際に家の前で二度もぬかりました。
今日の子規歳時は、「買ふて来た冬帽の気に入らぬ也(明治32年、1899年)」です。
子規の病状が小康状態で外出できるようになり、家族が買ってくれた冬帽が気に入らない様子が詠まれています。
今日の魯迅箴言は、箴言130-123「人は風刺と冷嘲は紙一重だと言うが、」です。
人说,讽刺和冷嘲只隔一张纸,
我以为有趣和肉麻也一样。
人は風刺と冷嘲は紙一重だと言うが、
麗しさと厭味もまた、紙一重ではないだろうか。