魯迅箴言日記 2026/08/28 鮓つけて同郷人を集めけり(明治34年、1901年)

 今日は、8月28日、金曜日。着金確認し、司法書士に連絡。TNTへ支払。昼はチェルの街宣。6時から四人会。

 今日の子規歳時は、「鮓つけて同郷人を集めけり(明治34年、1901年)」です。

 今日の魯迅箴言は、箴言130-52「名の知れた人の言葉が、」です。

 名人的话并不都是名言;

    许多名言,倒出自由夫野老之口。

 名の知れた人の言葉が、すべて名言であるとは限らない。

 少なからぬ名言は、むしろ農夫や田舎の老人の口から出たものだ。

魯迅箴言日記 2026/08/27 われに法あり君をもてなすもぶり鮓(明治29年、1896年)

 今日は8月27日、木曜日です。事務所で選対ニュースやら、当面の日程やら作成する。午後、核のゴミの運営委員会。5日の大間交流会の案内文。その他いろいろです。

 今日の子規歳時は、「われに法あり君をもてなすもぶり鮓(明治29年、1896年)」です。

 今日の魯迅箴言は、箴言130-51「天才は、」です。

 天才并不是自生自长在深林荒野里的怪物,

    是由可以使天才生长的民众产生,长育出来的,

    所以没有这种民众,就没有天才。

 天才は、深い林や荒野に自生して育つ怪しげな生き物ではけっしてなく、

 天才を生み育てることのできる民衆によって、

 産み出され、育てられるものです。

 でありますから、そのような民衆なくしては、天才もまた存在しないのです。

魯迅箴言日記 2026/08/26 桔梗活けてしばらく仮の書斎哉(明治28年、1895年)

 今日は8月26日、水曜日。今日は、土地売買の登記書類をもって司法書士へ。

 今日の子規歳時は、「桔梗活けてしばらく仮の書斎哉(明治28年、1895年)」です。

 今日の魯迅箴言は、箴言130-50「古人が、書を読まねば愚人になると言ったのは、」です。

 古人说,不读书便成愚人,

    那自然也不错的。

    然而世界却正由愚人造成,

    聪明人决不能支持世界,

   尤其是中国的聪明人。

 古人が、書を読まねば愚人になると言ったのは、

 むろん誤りではない。

 だが世界は、まさにその愚人が造り上げたのであり、

 利口者は、けっして世界を支えることはできない。

 ――なかんずく中国の利口者は。

魯迅箴言日記 2026/08/25 秋風や生きてあひ見る汝と我(明治28年、1895年)

 今日は8月25日、火曜日。日課、生協、事務所、RFS手続き。教室。印鑑証明とる。2万5千円。草刈り代。26日の準備。司法書士。13時半。

 今日の子規歳時は、「秋風や生きてあひ見る汝と我(明治28年、1895年)」です。

 この日、子規は松山で漱石と会った。

 今日の魯迅箴言は、箴言130-49「名声の興廃は、」です。

 名声的起灭,

    也如是光的起灭一样,

    起灭时候,从近到远,

    灭的时候,远处倒还留着余光。

 名声の興廃は、

 光のそれと同じく、

 興るときは、近くから遠くへとひろがり、

 廃れるときは、かえって遠くに余光を留める。

魯迅箴言日記 2026/08/24 蜩や几を圧す椎の影(明治30年、1897年)

 今日は8月24日、月曜日。9時、事務所。4時企画会議。ワイエスミッド。2日の視察。4日の語る会。26日の契約の件。印鑑証明とる。

 今日の子規歳時は、「蜩や几を圧す椎の影(明治30年、1897年)」です。

 几は机のこと。蜩はヒグラシ。

 今日の魯迅箴言は、箴言130-49「専門家が独りよがりだということには、」です。

 专门家的话多悖的事,还得加一点申说。

    他们的悖,未必悖在讲述他们的专门,

    是悖在倚专家之名,来论他所专门以外的事。

 専門家が独りよがりだということには、もう少し説明が必要だろう。

 彼らの独善は、必ずしもその専門についての話にあるのではなく、

 むしろ専門家の名をいいことに、専門外まで論じるところにある。

魯迅箴言日記 2026/08/23 読みさして月が出るなり須磨の巻(明治28年、1895年)

 今日は8月23日、日曜日。今日は町会祭りの日。9月4日の語る会の準備もある。

 今日の子規歳時は、「読みさして月が出るなり須磨の巻(明治28年、1895年)」です。

 今日の魯迅箴言は、箴言130-47「我々の知識には限りがあるから、」です。

 我们的知识很限,谁都愿意听听名人的指点,

    但这时就来了一个问题;

    听博识家的话好,还是听专门家的话好呢?

    解答似乎很容易;都好。自然都好;

    但我由历听了两家的种种指点以后,

    却觉得必须有相当的警戒,

    因为是,博识家的话多浅,专门家的话多悖的。

 我々の知識には限りがあるから、誰しも名の知れた人の教えに耳を傾ける。

 しかし、ここにひとつの問題が生じる……

 博識家と専門家、どちらの話を聞くのがよいのか?

 答えは簡単そうにみえる――どちらもよい。

 むろんどちらもよいのだが、

 私は双方からいくつかの教えを聞いた経験から、

 それ相応の心構えが必要だと思う。

 なぜなら、博識家の話は底の浅いことが多く、

 専門家の話は独りよがりが多いからだ。

魯迅箴言日記 2026/08/22 病床の我に露ちる思ひあり(明治35年、1902年)

 今日は8月22日、土曜日。今日は、明日の町会祭の準備です。あとは小説の執筆です。楽しみです。

 今日の子規歳時は、「病床の我に露ちる思ひあり(明治35年、1902年)」です。

 これは子規の失恋の句のようです。

 今日の魯迅箴言は、箴言130-46「農夫が田を耕し、左官が壁を塗るのは、」です。

 农夫耕田,泥匠打墙,

    他只为了米麦可吃,房屋可住,

    自己也因此有益之事,得一点不亏心得糊口之资,

    历史上有没有「乡下人列传」或「泥水匠列传」,

    他向来就并没有想到。

 農夫が田を耕し、左官が壁を塗るのは、

 食べられる米や麦、住める家屋に、みずからもその恩恵に与りながら、

 なんのやましい気持ちもなく生活費を得るためで、

 歴史上に「田舎者列伝」や「左官屋列伝」があるかどうかなど、

 これまで考えたことすらあるまい。