三田文学の同人雑誌評でとりあげられる

 文芸誌「文学界」に同人雑誌評があった。服部進先生が編集長の時代から北狄が発行されれば毎号3部ずつ送っていた。私は301号から357号まで中国時代に2号だけ欠作したが、55作発表してきた。
 文学界の同人雑誌評がたしか2008年でなくなった。それを引き継いだのが、季刊「三田文学」だった。三田文学にも北狄は毎号送り続けた。北狄も季刊なので、たいがい2号前の作品が取り上げられる。
 私は文学界では、三回しかとり上げられなかった。それも2006年に「犬捕り万蔵」がとりあげられてからは、三田文学に引き継がれてからも一度も評価の対象にもしてもらえなかった。その「犬捕り万蔵」は一部書き直して、2006年の8月に第22回自治労文芸賞をもらった。それ以前の2002年の7月には母親のことを書いた「最後の孝行」で第30回青森県文芸協会新人賞をもらっている。つまり、48歳で北狄の同人となり、小説を書き始め、52歳と57歳ときに小さな賞をとるまでの9年間は、とにかく仕事の傍ら、無我夢中で書きまくっていた。
 しかし、私はそれ以来、長いスランプに陥ることとなった。もともと文学の素養があるわけでもないし、能力だって皆無に等しいのだから友人の路明夫の励ましと服部進先生をはじめとする同人諸兄の叱咤激励があったればこそどうにか続けられたし、応募する気にもなったのだった。
 2004年の2月に母が死に、10月に親友で尊敬する路君も亡くなった。そして、2009年2月に服部先生が逝去されるに及んで、私は書くべき心棒を失った気持だった。
 そんな状態で発表した作品は、北狄の同人はもちろん文学仲間やペンクラブの人たちから酷評され続けてきた。作品だけでなく、人格までけなされて、傷ついたことも何度かあり、小説を書くのをやめようかと考えたことも何度かあった。
 書くことに対し、折れそうになった気持を奮い立たせてくれたのは中国時代の教え子たちだった。勿論、学生たちは全員中国人で、日本語は外国語なのだ。それでも、私の小説を読みたいと言ってくれて、日本語で素直な感想を送ってくれた。
 そんなことがあって、どうにか昨年4作を北狄に発表した。その2作目、すなわち北狄355号に書いた「三内の家」が、1月10日に発行された三田文学2012年冬季号にとりあげられたのだ。
 偶然、北狄の合評会のある1月12日、なにげなくインターネットでみたのものだが、すぐにもよりの書店で三田文学を捜したがなかった。それで、即、注文したが、17日に書店に問いただしたところ、あと一週間はかかるとのことで、アマゾンに注文した。そして、今日の午後、定価と同じ値段(950円)で宅送された。
 三田文学の「新 同人雑誌評」は勝又浩と伊藤氏貴氏の対談という形で批評がのっていて、私の「三内の家」は7番目にとりあげられていた。私の作への評は、「家にこだわった話ですね。これは地名がきちんと書きこまれていました」(伊藤)、「借家住まいで母子家庭だったお母さんが、運送会社に勤めながらこつこつ貯めてやっと家を建てて、そこへ友だちを呼んで泊まったり、風呂がないから銭湯に行ったり、そのあたりの話が細やかに書かれてあってよかった」(勝又)とほめてもらった。また、「不思議なこだわりを持っている人ということが見えます。そういうところと、三内の家がつながっているんだなという感じを持ちました。この作者は、理系じゃないかなと」(勝又)と評価してくれたし、「家とともに朽ちていく覚悟があって」(伊藤)と家に対する雰囲気まで読み取ってくれた。とても、気分がよかった。そして、嬉しかった。
 私はこれでまた、小説を書く駆動エンジンを可動させることができる。私の作品をけなす人もあれば、わずかだがほめてくれる人もいる。もっともっと精進して、ていねいに書き続けることにする。