論語一日一章「知其説者之於天下也」

 今日の論語一日一章は、第3篇「八佾第三」の第11章「知其説者之於天下也」(其の説を知る者の天下に於けるや)です。
 ここで、この章の漢文原文はこうです。
 「或問禘之説、子曰、不知也。知其説者之於天下也、其如示諸斯乎。指其掌。」
 また、この章の読み下し文はこうなります。
 「或人禘の説を(孔子に)問ふ。子曰く、『知らず、其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸(これ)を斯(ここ)に示(み)るが如きか』と。其の掌(たなごころ)を指さす。」
 さらに、中国語簡体表記ではこうです。
 「或问禘之说。子曰,不知也。知其说者之於天下也,其如示诸斯乎。指其掌。」
 そして、この章の日本語訳はこうなります。
「ある人が禘の祭りの意味を孔子に問うた。孔子はいわれた。(禘の祭りは先王が己の身の根本に遡って恩を報じ、遠い遠い昔を思い慕う心を表すのであるから、仁孝誠敬の至れる者でなければ、その深意を知ることは出来ないし、また魯が天子でもないのに禘の祭りをするのは礼に外れていることをあらわさなければならないから、孔子はこれを説明することを避けて)『わしは知らぬ。もし禘の祭りの意味を知っている人があって天下に臨むならば、ここに視るように容易に天下を治めることができる』と。そして、自分の掌(たなごころ)を指して見せた。」
 ここで、語句・語彙の解釈はこの通りです。
 禘の説;禘の祭りをするわけ、のことです。
 斯(ここ);こことは、掌(たなごころ)のことをさしています。
 この章は、孔子が禘の意義の深いことをのべた章です。
 つまり、孔子は禘の祭りの意味を知らないのではないけれども、一方には己の国の悪い事を言うのを避けるとともに、一方には話しても分からない人に話すことを辞して、「知らぬ」と答えたのであり、「知らぬ」という一語は、この章のうちでは重い意味をもっているのです。