丸谷才一の『墨いろの月』について

 青柳さんからいただいた『文芸春秋・短篇小説館』によって短篇小説の書き方について勉強してみることにする。
 今日は、丸谷才一の『墨いろの月』について冒頭を書き写してみる。

「翻訳者の朝倉は、ゆきつけのレストラン兼バーの若いマスターから、人間ドックの土産話を聞いて衝撃を受けた。マスターがそこで知り合ひになったヤクザの親分といふのは、ひょっとすると自分が若いころ喧嘩の仕方を教へた少年ではないかと思ったのである。いま朝倉は六十いくつで、若いころといふのは三十年以上まへのことだ。遠くへだたった過去がよみがヘるのは気味が悪かった。
 朝倉は某大学の経済学部の中退で、いろいろの職業に就いたのち、結局、翻訳で暮らしを立ててゐるが、人気のあるシリーズを二つ持ってゐるので、同業者のなかではまあ稼ぎの多いほうだ。隔週に一度、疑問の箇所をアメリカ人に訊いて、それから彼といっしょにこの店に来ることになっていた。その場合はまづレストラン、それからバーとなるのだが、その夜は何かのパーティの帰りだし、一人である。カウンターに四人が向かへば満員のバーのほうに、真直ぐに行った。
 そこには二人、常連がゐて、とうに出来上がってゐる。一人は五十代の代議士秘書で、もう一人は四十代のテレビ・ディレクターである。それに黒づくめのなりの若いマスターがカウンターの向こうにゐて、これも飲み出している。マスターは普段はもっと遅くはじめるのだが、今日は先週はいった人間ドックの結果がわかって、何も問題がなかったので、その心祝ひなのだ。」
 マスターが一泊二日の人間ドックに入った話がここから続く。その話は明日にすることにしよう。