今日の論語一日一章「子之燕居、申申如也、夭夭如也」

 今日は7月11日木曜日です。6時半に起きましたが、すっきりしない天気で、散歩はやめることにしました。沖縄南方海上には台風が発生しているようです。青森は相変わらず曇りの天気です。今朝も窓辺の紫陽花はうす青緑の花弁のたばをすっくと上へ向けて微風にそよいでいます。この紫陽花は、雨に打たれると濡れて水分の重みで花頭をたれてしまいます。いまの円相場は1ドル99円30銭です。

 さて、今日の論語一日一章は、昨日飛ばした第7篇「述而第七」の第4章「子之燕居、申申如也、夭夭如也」(子の燕居、申申如たり。夭夭如たり)です。この章では、孔子のように、心に盛徳があるひとは、いかなる時でも、容色に宜しきを得るといっています。
 これの原文はこうです。
 「子之燕居、申申如也。夭夭如也。」
 読み下し文はこうなります。
 「子の燕居、申申如たり。夭夭如たり。」
 中国語簡体表記はこうです。
 「子之燕居,申申如也。夭夭如也。
  Zǐ zhī yàn jū, shēn shēn rú yě. Yāo yāo rú yě」
 また、日本語訳はこうなります。
 「孔子が何もせずにひまでおられる時は、身体はゆったりしており、顔色はにこにこしている。」
 ここで、この章の語句・語彙の解説はこうなります。
 燕居;何もせずにいることです。上に事(つか)えたり、下に接したり、祭りを行ったり、賓客に応対したりする時でないことをいっているのです。
 申申如;身体がゆったりしてのびやかであるのを形容した語です。
 夭夭如;顔色が平和で悦ばしそうなのを形容した語です。
 この章は門人が孔子の閑暇無事の時の様子を述べたものです。
 孔子は内に盛徳があるから、これが外に発して、いかなる場合でもその容色が宜しきを得るのです。