今日の論語一日一章「夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人」

 今日は7月6日土曜日です。昨日までの雨も上がり、今日は陽もさして少しは明るくなりました。気分も爽快です。風に紫陽花がそよいでいます。午後からおかじょうき川柳社の川柳ステーションです。毎月の句会を大きくした句会です。はじめて出ます。これが最後になるかもしれません。円相場は1ドル101円18銭です。

 さて、今日の論語一日一章は、第6篇「雍也第六」の最終第28章「夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人」(それ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す)です。
 この章の原文はこうです。
 「子貢曰、如有博施於民、而能濟衆、何如、可謂仁乎。子曰、何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取誓、可謂仁之方也己。」
 読み下し文はこうなります。
 「子貢曰はく、『如(も)し博(ひろ)く民に施して能く衆を済(すく)ふことあらば如何。仁と謂ふべきか。』子曰はく、『何ぞ仁にとどまらん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶これを病めり。それ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取るを、仁の方と謂ふべきのみ。』と。」
 さらに、中国語簡体表記ではこうです。
 「子贡曰,如有博施於民,而能济众,何如,可谓仁乎。子曰,何事於仁。必也聖乎。尧舜其犹病诸。夫仁者,己欲立人,己欲达而达人。能近取譬,可谓仁之方也己。
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 ここで、日本語訳はこうなります。
 「子貢が曰いました。『もし人があって博く恩恵を民に施して天下の衆人を済(すく)うならば、その徳は何と申されましょうか。』孔子が曰はれた。『どうして仁どころか、必ず聖人の徳があって天子の位にいて始めて成し遂げられることであろう。しかし、堯舜のような大聖人でさえ、なお容易にできないといって心に患えているほどである。このようなむずかしいことをしなければ仁でないと思うならば、仁はますます求め難くなる。いったい仁者は人と己とを同体とみるものである。己が立とうと思えば、同時に人を立たせようと思い、己が達しようと思えば、同時に人を達しさせようと思うものである。仁者の心はこのようであるから、仁を求めるのに広く民に施して能く衆を済(すく)うような高遠な事をすることがあろう。ただ能く近く己の欲する所をもって他人の心に比べ、他人の欲する所もまたこのようであると知って、己の欲する所を推して他人に及ぼすのが仁を求める方法なのである。』と。」
 この章の語句・語彙の解説はこうです。
 必ずや聖か;聖は聖人の徳があって、天子の位にいる人のことをいいます。「乎」は疑って決定しないという語です。
 病(や)む;十分できないとして患(うれ)うることをいいます。
 立つ;ここでは、身を立て志を立てる類のことをいいます。
 達す;心が事理に通じ、行事が遂げられる類のことをいいます。
 近く譬を取る;近くは己の身をさしています。博く施し衆を済うのが高遠なのに対していいます。
 仁の方;方は方法手段のことです。
 この章は仁を求めるのは、卑近の処においてすべきことを教えたものです。孔子の答えは三段になっています。初めは、子貢が仁を高遠な所に求めるのを抑え、次は仁者の心を説き、最後に仁を求める方法のことを述べています。
 呂太臨は「子貢は仁を行う志があるけれども、徒に高遠な事として、まだ、仁を行う方法を知らないから、孔子が己においてこれを取ることを教えられた。どうか卑近なところから仁に入るようにと思ったからである。これは仁を行う方法であって、『博く民に施し能く衆を済ふ』ことでも、またこれから進むのである。」と言っています。