笹田たかしのプロフィール

笹田たかし プロフィール
 
1949年7月21青森市浜町に生まれる。母方の家は提灯屋。
市内長島で育ち、1953年大谷幼稚園、1956年長島小学校へ進み、1962青森市立甲田中学校へ入学し、19653回生として卒業。
中学2年の夏休みに三内稲元へ転居し、三内から青森県立青森高校(1965年~1968年第18回生)へ雨の日も雪の日も、自転車で通う。高校時代は水泳部で1500自由形の選手として高校総体へ出場するもブービーに終わる。ランキングは13位(14人中)。
1968東北大学への受験に失敗したため、秋田大学鉱山学部冶金学科に入学(1968年)し、手形学園町の鉱山学部北光寮で寮生活をおくる。秋田大学時代に魯迅の翻訳で知られる竹内好の知遇を得る。冶金学科の非鉄冶金研究室時代に「あさま山荘」事件や三島由紀夫割腹自殺事件を目の当たりにし衝撃を受ける。
入学当時、大学と寮は学生運動の嵐のなかにあり、1年の夏、秋大全共闘による全学スト封鎖を経験し、70年安保闘争や東大安田講堂事件を肌で感じながら、大学院進学のため4年間ドイツ語を履修する。一般教養のドイツ語教師だった大沢先生(後に信州大学教授)に可愛がられ、先生の研究室で医学部学生らとドイツ語研究会をつくり、トマスマンに傾倒する。このときの医学部の1学年下には、芥川賞作家の南木佳士がいた。
1972年に東北大学大学院工学研究科(金属工学専攻)へ入学し、片平町の選鉱精錬研究所の鉄鋼精錬研究室から青葉山の工学部へと通う。修士課程(1972年~1974年)を修了し(工学修士)、博士課程(1974年~1975年)へと進んだものの家庭の事情により1年で中退し、1975年故郷へ戻る。青森予備校講師として数学、理科を教える。この年、高校時代から付き合っていた石岡輝代と結婚する。
自治労青森県本部の職員(1976年~2009年)として33年勤務。自治労県本部では賃金調査、教宣、共済、原子力防災、書記次長などの職務についた。自治労本部の脱原発ネット・アドバイザーとして「原子力防災ハンドブック」などの執筆・編集を担当する。
4人(3男1女)の子をもうけ、家庭では子らにスイミングスクール、リトルリーグ少年硬式野球などのスポーツクラブに通わせる。授業参観に顔をだしているうちにPTAにもかかわるようになり、浪館小(5期)・甲田中(2期)・青森高校(1期)のPTA会長も経験する。青森市PTA連合会の事務局長、副会長として青森市社会教育委員、通学区検討委員会委員、旅館建築審議会委員なども歴任する。また、県PTA安全互助会専務も務めた。
PTA卒業後、1997年同人誌「北狄」に加入して小説を書き始め、編集長にもなる。これまで、「最後の孝行」で青森県文芸協会第22回新人賞(2002年)、「犬捕り万蔵」で第20自治労文学賞2006年)を受賞。「棘栗蟹」を発表した2000年3月発行の「北狄310号」が第1富士正晴全国同人雑誌特別賞を受賞する。
2009年、自治労県本部定年まで1年を残し59歳で退職し、青森市職員に採用される。市長公室市民政策課副参事として公務員も経験する。市役所退職後、中国吉林省長春市の東北師範大学人文学院で日本語を5カ月弱教える。
帰国後すぐに2011311日の東日本大震災を経験し、福島原発事故の惨状を目の当たりにして、原子力防災研究所を設立する。
現在は、放射性廃棄物問題や脱原発原子力防災、ならびに環境・エネルギー問題に関する論文を書く傍ら、原子力災害や自然災害から市民の安全安心に資するために市民サイドからの研究提言を続ける一方、NPO法人再生可能エネルギー自然エネルギーの日常生活への利用の必要性を訴えている。
著書に『下北半島核景色』(1986年)、『浪岡町長四十六日の反乱』(2009年)があり、共著に『原子力防災ハンドブック』(1998年)、『日本資本主義の現状と課題』(2001年)、『遙かなるチェルノブイリ』(2003年)他がある。