7月1日、いよいよ大好きな夏がやってきます

 昨夜は夜8時に寝て、朝6時まで、寝床の中でゆったりとしていました。今日から7月です。この1カ月、夏風邪に悩まされましたが、どうやら回復したようです。ふつふつと気力もわいてくるのが、目覚めの感覚と一緒に体の芯から末端に伝わる様子でわかります。それにしても、漱石の「吾輩は猫である」や「倫敦塔」を読んでいて、そのボキャブラリーの豊富さと比喩と修飾語の的確さに圧倒されます。漱石に学ぶこと大であると思いました。

 今日の子規歳時は、
 夕間暮石鎚詣帰りけり (1898年、7月1日)
 明治16年(1883年)上京した子規は、その後9回松山に帰省しています。そのうち22年(1889年)の12月、28年(1895年)従軍前の3月と、病後須磨からの8月を除いて、他はいつでも7月に帰るのが例であったようです。

 今日の魯迅箴言は、箴言119です。
 人感到寂寞时,会创作;
 一感到干净时,即无创作,
 他已经一无所爱。
 创作总根于爱。
 Rén gǎndào jìmò shí, huì chuàngzuò;
 yī gǎndào gānjìng shí, jí wú chuàngzuò,
 tā yǐjīng yī wú suǒ ài.
 Chuàngzuò zǒng gēn yú ài.
「人は寂寞を感じるとき、捜索に向かうものだ。心がすっきりとすると、創作の意欲はなくなる。彼はすでに愛するものがないからだ。創作はすべて愛に根ざしているのだ。」
 寂寞を感じるとき;感到寂寞时 gandao jimo shi 
  創作ができる;会创作 hui cuangzuo 
  心がすっきりしているとき;感到干净时 gandao ganjing shi 
  創作意欲はなくなる;即无创作 jiwu chuangzuo すでにもう;已经 yijing 
  ひとつもない;一无 yiwu 愛するもの;所爱 suoai すべて;总 zong 
  愛に根ざす;根于爱 genyuai

 今日の論語は、論語8-4(論語巻第四 泰伯第八篇 4章)です。
 曾子有疾、孟敬子問之、曾子言曰、鳥之將死、其鳴也哀、人之將死、其言也善、君子所貴乎道者三、動容貌、斯遠暴慢矣、正顔色、斯近信矣、出辭氣、斯遠鄙倍矣、籩豆之事、則有司存、
 Céngzi yǒu jí, mèng jìngzi wèn zhī, céngzi yán yuē, ji zhī jiàng sǐ,
 qí míng yě āi, rén zhī jiàng sǐ, qí yán yě shàn, jūnzǐ suǒ guì hū dào zhě sān,
 dòng róngmào, sī yuǎn bào màn yǐ, zhèng yánsè, sī jìn xìn yǐ, chū cí qì,
 sī yuǎn bǐ bèi yǐ, biān dòu zhī shì, zé yǒusī cún,
曾子、疾あり。孟敬子これを問う。曾子言いて曰わく、鳥の將に死なんとするや、其の言うこと善し。君子の道に尊ぶ所の者は三つ。容貌を動かしては斯(ここ)に暴慢を遠ざく。顔色を正しては斯に信に近づく。辞気を出だしては斯に鄙倍を遠ざく。籩豆の事は則ち有司存せり。」(曾子が病気にかかったとき、孟敬子が見舞った。曾子は口を開いて言った。「鳥が死ぬときはその鳴き声はかなしいし、人が死ぬときにはそのことばは立派です。臨終のわたしのことばをどうぞお聞き下さい。君子が礼について尊ぶことは三つあります。姿かたちを動かすときには粗放から離れます。顔つきを整えるときには誠実に近づきます。ことばを口にするときには俗悪から離れます。この三つが礼にとって大切なことです。お祭りのお供えの器物などのことは、かかりの役人がおります。君子の尊ぶべき礼ではありません。)(曾子有疾,孟敬子问之,曾子言曰,鸡之将死,其鸣也哀,人之将死,其言也善,君子所贵乎道者三,动容貌,斯远暴慢矣,正颜色,斯近]信矣,出辞气,斯远鄙佰矣,笾豆之事,则有司存,)