希望は未来にある

希望は未来にある(「魯迅箴言」より)
   
 地球上の世界は一つではなく、現実の世界の相違は、空想上のあの世とこの世の違いよりもっと凄まじい。
 ある世界の人間は、他の世界の人間を、軽蔑し、憎悪し、抑圧し、恐怖し、そして殺戮する。
 同じ人類なのだから、互いに理解し合えないはずはない。
 だが、時代や国土、慣習や先入観が人の心を覆い隠し、鏡に映るようにはっきりとは、他人の心が見えないことが多い。
 地位や、ことさら利害が異なれば、国と国の間はいうに及ばず、同国人の間でも理解しにくいものである。
 世界はこんなにも広く、しかもまた、こんなにも狭い。
 貧しい人たちはこんなにも愛し合いながら、しかもまた、孤独には安んじられない。
 世間には、いわゆるどうでもいいことなど存在せず、ただあれこれ首を突っ込む力もないため、ある一つのことだけをつかまえて関わるのである。
 なぜ、その一つなのか?
 それが自分と、もっとも関わりが深いからだ。
 無窮の彼方、無数の人々がすべて私とつながっている。
 私は存在し、私は生活し、私は生き続ける。
 私は自分自身を、より身近に感じ始めた。
 闘争は、かえって正しいと思う。
 なのに、抑圧されて、どうして戦わないのか?
 相手が猛獣のようなら、猛獣のように、相手が羊のようなら、羊のように振舞うのだ。
 そうすれば、いかなる魔物も、みずからの地獄へ引き返すほかあるまい。
 もし、ライオンなら、どんなに太ったかを誇るのもよかろう。
 だが、豚や羊なら、太るのはむしろ良くない兆候である。
 我々はいま、自分たちがいったいどちらに似ていると思っているのだろうか。
 卑怯な人間が、いかに万丈の怒りの炎を燃え上がらせようとも、弱い民草のほかに、一体何を焼き払えるというのか?
 勇者は怒れば、刃を抜いてより強いものに立ち向かう。
 臆病者は怒れば、刃を抜いてより弱いものに向っていく。
 救われぬ民族には、決まって少なからぬ英雄がいて、もっぱら子どもにのみ睨みを利かせる。
 この臆病者ども!
 からかいで敵をあしらうのは、ひとつの有効な戦法だが、その突くところは必ず相手の致命傷でなければならない。
 さもなくば、からかいはただのからかいに終ってしまう。
 かつて勢力があった者は復古したがり、
 いままさに勢力ある者は現状を維持したがる。
 勢力がなかった者は、革新したがる。
 ほぼそんなところだ。ほぼ!
 河の流れは、もとの川筋に戻ることはなく、必ずや変わりゆく。
 現状が維持されることもなく、必ず変っていく。
 百利あって一害なしということもなく、ただ利と害の大小が測れるだけだ。
 破壊なくして建設なし、これはおそらく正しいのだ。
 だが、ぶち壊したからといって、必ず新しく建設されるとは限らない。
 旧いものと新しいものには、往々にしてきわめて似たところがある。
 革新できない人種は、古いものの保存もできやしない。
 実は、革命は、けっして人を死なせるものではなく、人を活かすものである。
 革命に終わりはない。
 もし、この世に真に「至善に止まる」ようなことがあるなら、
 人間世界はたちまち凝固してしまうであろう。
 世界が私とともに滅ぶことはあり得ず、希望は未来にある。