誰が一番親孝行か

 12月末に帰国して、1月から部分年金生活者となった。帰ってきたら、帰ったで何かと金がかかる。隠遁生活をおくろうと決めていたのに、私の帰国を待っていたかのように、元上司の最後の町長から選挙の応援を頼まれた。もちろんボランティア。勇んで大陸に渡り、一旗揚げると意気込んで出かけたのに、ひと冬も越せずに逃げ帰った気の弱い私は、深い考えもなくかの合併反対元町長の県議選挙にはまり込む羽目になってしまった。友人知人はおろか、家人にまで呆れられ、本当の馬鹿か、ダメな河馬だ、と陰口をたたかれ、選挙からも逃げようかとも考えたが、4月10日までは休まずやって汚名をそそげ、と意外にも女房に激励される始末だった。
 選挙には勝ったが、予想を越えて余りあるほどの低得票であった。元町長の地盤以外に8千世帯の名簿があるのに、実際には3千票くらいしか得票していない勘定だった。無駄な努力だったのか、それともそんなものなのか、選挙ブローカーでもないのでわからない。しかし、隠遁生活前の第一関門は超えた。
 4月1日は三男の誕生日で、この日が記念すべき初出勤の日でもあった。私も女房も、まさか三男が家から通勤することになるとは夢にも考えなかった。末っ子で、しかも、幼い時から上の三人の子とは明らかに違っていた。気が強いのか、弱いのか、頭がいいのか、悪いのか、さっぱりわからない子だった。ただ、淋しがらない、ひとりでいるのを苦にしない子であることだけは、はっきりしていた。上の子たちが皆、親よりも友だちを大切にしていたのとは対照的であった。ひとりだけ小学校以来の友だちいて彼とはいまでも付き合っている。
 三男は小学校から中学校にかけては競走馬に夢中になり、高校ではピアノに熱中した。大学ではバンドのボーカルもやっていたらしいが、四年になって突然、弁護士になるためロースクールに行くと言いだした。彼は高校受験には失敗したのに、大学受験では志望校には受からなかったが、それでも六大学の一角に現役で滑り込んだ。専門は法学部の法律学科で、もっとも彼には相応しくない学問だと私は思っていたものだ。
 世の中はそんなに甘くはなく、三男は卒業後、志望するロースクールには入れなかった。結局、去年の夏、家に残ってやる、と言って市役所に受験した。役所の合格発表は、奇しくも私の出国の日と重なった。
 こうして、私と女房は三男の扶養家族になり下がった。情けないとは思うが、扶養から外れるほどの収入がないのでそれも致し方ない。しかも、初月給の翌日、私たちは彼からウナギをご馳走になったのである。
 四人の子の中で誰が一番親孝行かといえば、いまのところ三男であるのは間違いがない。