今日はチェルノブイリ原発事故から25年目

1986年4月26日にチェルノブイリ原発4号機が爆発事故を起こしてから今日でちょうど25年がたった。その前年、私は初めての本を出版した。題して『下北半島核景色』。その年の4月9日北村県知事は、県議会全員協議会において、「核燃料サイクル施設の受け入れを表明した。この日の無念を忘れまいと、奇しくもその翌年、史上最大のレベル7のチェルノブイリ原発(出力変動中の4号炉100万キロワット、1983年運転開始)事故(26日午前1時半、急激な出力上昇試験で核暴走し、原子炉が爆発し、爆発と火災により、大量の放射能が放出)が起こり、原発から5キロ離れた原発労働者(12000人)のプリピアチ市の5万人が避難移住し、30キロ圏内の13万5千人が避難した。この事故のせいで30数名の原発職員と消防士が死亡し、多くの人たちが急性障害で被曝した。4号機は5千トンに及ぶ鉛やホウ素が投入され、その後コンクリートで原子炉を蔽い、石棺にされた。この事故のせいで、ソ連は崩壊し、チェルノブイリ原発周辺は、現在のロシア・ウクライナベラルーシの3カ国にわかれた。現在でも放射能は大地を汚染したままで付近は廃墟のままだ。9年前現地を訪れた。かつての原発労働者の街プリピアチ市は無人の廃墟で、あらたに原発から約40キロ離れたところに労働者の移住地としてスラブチチ市が建設されていた。労働者はそこから専用列車で、45分かけてチェルノブイリ原発に向かっていた。途中の30キロ圏内は立ち入り禁止が続いていた。
日本はいまこそ、チェルノブイリ原発事故の教訓に冷静に学ぶ必要がある。25年たっても放射能汚染は風化するどころか、永久的に立ち入ることのできない大地が残り、25年前の事故処理で廃棄された装甲車、ヘリコプターなど数千台が放置されたままなのだ。石棺自体も崩壊寸前でこれから補修するだけで2千億円以上もかかってしまう。廃炉はその先だ。その先は、ソ連崩壊の時と同様、日本崩壊の危機だ。
どうなるか先のわからない危機がそこに迫っている。沿岸に沈む、一万人余の行方不明者の死体が、一挙に浮かび上がったとき、新たな悲劇が始まるような気がする。