今日は2月17日、火曜日です。

 今日は、2月17日、火曜日です。朝日が射しており、どうやら穏やかな天気になりそうです。

 さて、今日の子規歳時は、

 何も書かぬ赤短冊や春浅し (1901年、明治34年2月17日)

 筆や紙にも不自由していた時代に、子規は菓子箱のヘギや木の葉に俳句を書いたものが残っています。ことさらに風流を気取ったわけではなく、短冊が買えなかったようです。しかし、子規は謝礼をもらって書いたことは一度もなかったそうです。

 
 今日の論語は、公冶長第五の16節から18節までです。

5-16 子谓子产,有君子之道四焉,其行己也恭,其事上也敬,其养民也惠,其使民也义,
(子、子産を謂わく、君子の道四つ有り。其の己れを行うや恭、其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義。)
5-17 子曰,晏平仲,善与人交,久而敬之,
(子曰わく、晏平仲、善く人と交わる。久しくしてこれを敬す。)
5-18 子曰,臧文仲,居蔡,山节,藻,何如其知也,
(子曰わく、臧文仲、蔡を居く。節を山にし梲を藻にす、何如を其れ知ならん。)

 今日の魯迅箴言は、箴言46から箴言51までです。

46 农夫耕田,泥匠打墙,他只为了米麦可吃,房屋可住。自己也因此有益之事,得一点不亏必的糊口之资,历史上有没有乡下人列传或、泥水匠列传,他向来就并没有想到。 (農夫が田を耕し、左官が壁を塗るのは、食べられる米や麦、住める家屋に、みずからもその恩恵にあずかりながら、何のやましい気持もなく生活費を得るためで、歴史上に「田舎者列伝」や「左官屋列伝」があるかどうかなど、これまで考えたことすらあるまい。


47 我们的知识很有限,谁都愿意听听名人的指点,但这时就来了一个问题;听博识家的活好,还是听专门家的活好呢? 解答似乎很容易;都好。自然都好;但我由厉听了两家的种种指点以后,却觉得必须有相当的警戒。因为是;博识家的活多浅,专门家的活多悖的。 (我々の知識には限りがあるから、誰しも名の知れた人の教えに耳を傾ける。しかしここに、ひとつの問題が生じる――博識家と専門家、どちらの話を聞くのがよいのか? 答えは簡単そうにみえる――どちらもよい。むろんどちらもよいのだが、私は双方からいくつかの教えを聞いた経験から、それ相応の心構えが必要だと思う。なぜなら、博識家の話は底の浅いことが多く、専門家の話は独りよがりが多いからだ。


48 专门家的话多悖的事,还得加一点申说。他们的悖,未必悖在倚专家之名,来论他所专门以外的事。 (専門家が独りよがりだということには、もう少し説明が必要だろう。彼らの独善は、必ずしもその専門についての話にあるのではなく、むしろ専門家の名をいいことに、専門外まで論じるところにある。


49 名声的起灭,也如光的起灭一样,起的时候,从近到远,灭的时候,远处倒还留着余光。 (名声の興廃は、光のそれと同じく、興るときは、近くから遠くへとひろがり、廃れるときは、かえって遠くに余光を留める。)


50 古人说,不读书便成愚人,那自然也不错的。然而世界却正由愚人造成,聪明人决不能支持世界,尤其是中国的聪明人。 (古人が、書を読まねば愚人になると言ったのは、むろん誤りではない。だが世界は、まさにその愚人が造り上げたのであり、利口者は、けっして世界を支えることはできない。――なかんづく中国の利口者は。)


51 天才并不是自生自长在深林荒野里的怪物,是由可以使天才生长的民众产生,长育出来的,所以没有这种民众,就没有天才。 (天才は、深い林や荒野に自生して育つ怪しげな生き物ではけっしてなく、天才を生み育てることのできる民衆によって、産み出され、育てられるものであります。でありますから、そのような民衆なくしては、天才もまた存在しないのです。