今日は2月18日水曜日です。

 今日は2月18日、水曜日です。前夜、家の前に除排雪が入り、車庫前の市道は完全にアスファルトが露出しました。まだ、庭にはうず高く雪が積みあがっています。

 今日の子規歳時は、

 小説を草して独り春を待つ (1898年、明治31年2月18日)

 明治24年の暮れ、子規は常盤台を出て、駒込に間借りして、「大事業」に着手したのでした。それが、小説「月の都」の創作でした。子規はこの作をもって文壇に打って出ようとしたのです。翌25年2月中旬に至って、漸く「月の都」は完成したのでした。


 今日の論語は、公冶長第五 第19節と第20節です。

 
5-19 子张问曰,令尹子文,三仕为令尹,无喜色,三己之,无愠色,舊令尹之政,必以告新令尹,何如也,子曰,忠矣,曰,仁矣乎,曰,未知,焉得仁,崔子弑齋君,陈文子有马十乘,弃而违之,至於他邦,则曰,犹吾大夫崔子也,违之,至以邦,则又曰,犹吾大夫崔子也,违之,何如,子曰,清矣,曰,仁矣乎,曰,未知,焉得仁,
(子張問うて曰わく、令尹子文、三たび仕えて令尹と為れども、喜ぶ色なし。三たびこれを已めらるとも、慍れる色なし。旧令尹の政、必らず以て新令尹に告ぐ。何如。子曰わく、忠なり。曰わく、仁なりや。曰わく、未だ知ならず、焉んぞ仁なることを得ん。崔子、斉の君を弑す。陳文子、馬十乗あり、棄ててこれを違る。他邦に至りて則ち曰わく、猶お吾が大夫崔子がごとくなりと。これを違る。一邦に至りて、則ち又た曰わく、猶お吾が大夫崔子がごときなりと。これを違る。何如。子曰わく、清し。曰わく、仁なりや。曰わく、未だ知ならず、焉んぞ仁なることを得ん。)
5-20 李文子三思而后行,子闻之曰,再思斯可矣,
(季文子、三たび思いて而る後に行なう。子、これを聞きて曰わく、再びせば斯れ可なり。)

 今日の魯迅箴言は、箴言52から箴言60までです。

52 名人的话并不都是名言;许多名言,倒出自田夫野老之口。 (名の知れた人の言葉が、すべて名言であるとは限らない。少なからぬ明言は、むしろ農夫や田舎の老人の口からでたものだ。
53 风雅的定律,一个人离开本色,是就要的。不识字人不算俗,他要掉文,又掉不对,就俗;富豪儿郎也不算俗,他要做诗,又做不好,就俗了。風雅の法則によると、人は「本色」から離れると「俗」になる。字を知らぬ人だから俗というのではなく、無理に詩文を引用して取り違えるから、俗になる。富豪の息子だから俗なのではなく、彼が詩を作ろうとしてうまくいかないから、俗なのだ。
54 谚语固然好像一时代一国民的意思的结晶,但其实,却不过是一部分的人们的意思。 (諺は、ある時代ある国民の意思の結晶のようにみえて、じつは一部の人々の意思にすぎない。
55 成语和死古典又不同,多是世相的神髓,随手拈掇,自然使文字分外精神;又即从成语中,另外抽出思绪;既然从世相的种子出,开的也一定是世相的花。(成語は使い古された古典ともまた違い、多くは今の世相の真髄であって、意のままに取り入れれば。言葉はことのほか生き生きとしてくる。さらに成語から思いがけぬ思考の糸口が導かれることもあり、世相の種から出てくる以上は、開くのは必ず世相の花である。
56 科学不但并不足以补中国文化之不足,却更加证明了中国文化之高深。风水,是合于地理学的,门阀,是合于优生学的,拣丹,是合于化学的,放风筝,是合于卫生学的。灵乩的合于科学,亦不过其一而已。 (科学は中国文化の不足を補うに足らぬばかりか、中国文化が高く深いことをさらに証明してくれる。風水は地理学に、門閥優生学に、煉丹は化学に、凧揚げは衛生学にぴったり合う。「神のお告げ」が「科学」に合致するのも、またその一つにすぎない。
57 外国用火药制造子弹御敌,中国却用它做爆竹敬神;外国用罗盘针航海,中国却用它看风水;外国用雅片医病,中国却拿来当饭吃。同是一种东西,而外用法之不同有如比,… (外国は火薬で弾丸を造って敵に抵抗するが、中国はそれで爆竹を作り神を祀る。外国は羅針盤で航海するが、中国はそれで風水をみる。外国は阿片で治療するが、中国はそれを飯の代わりに食う。同じものでも、中国と外国の使い方はこれほど異なっている…)
58 中国古人,常欲得其,就是制妇女用的乌鸡白凤丸,也将全鸡连毛血都收在丸药里,方法固然苦笑,主意却是不错的。删夷枝叶的人,决定得不到花果。 (中国の昔の人は、いつもその「全体」を手に入れたがった。女性用の「烏鶏白鳳丸」を作るにしても、鶏まるごと、毛や血までもすべて丸薬に入れる。やり方は笑うべきだが、主意としては悪くない。枝葉を刈り落としてしまう人は、花も実も得られはしない。
59 相书上有一条说,北人南相,南人北相者贵。我看这并不是妄语。北人南相者,是厚重而又极灵,南人北相者,不消说是极灵而又能厚重。(人相の本には、北方人の南相、南方人の北相は貴いと書かれている。私が見るに、これはあながち妄語(でたらめ)でもなさそうだ。北方人で南方の人相の者は、重厚で利口、南方人で北方の人相の者は、言うまでもなく利口で、しかも重厚である。
60 人往往憎和尚,憎尼姑,憎回教徒,憎耶教道士。懂得此理者,懂得中国大半。 (中国人はしばしば、坊さんを嫌い、尼さんを嫌い、回教徒を嫌い、キリスト教を嫌うが、道士を嫌うことはない。)