2月16日、月曜日です。

 真夜中に家の前の市道除雪車が入りました。今日は2月16日、月曜日です。朝は薄曇りの天気です。雪は降っていません。人生65年、いまこそ寒さが身にしみるときはないと感じています。まだそんなに不自由さは感じていませんが、備えがないということは、漠然とした不安の中にあって、なんとかなるさという暢気な気持を吹き飛ばしてしまいます。

 さて、今日の子規歳時は、

 魚市に魚の少き余寒哉 (1898年、明治31年2月16日)

 明治24年の暮れから25年の春にかけて、子規は小遣い銭にも困り、二銭の筆代を鳴雪に借りたほどだったようです。当時まだ少年だった碧梧桐は、松山から巻紙を送り、古本を売って郵便切手を送ったりしていたようです。碧梧桐少年はえらいですね。また、子規もいい弟子をもったものです。子規の友人だった漱石の「吾輩は猫である」や「満韓ところどころ」を読んでいると、漱石も実にいい友人と門人にかこまれていたことがわかります。それにくらべると私にはいい友人はいますが、門人はいまだにひとりもおりません。当然のことですが。しかし、私の「鎌先温泉」を読んだ文芸同志会通信の評者が、作者は大学教授か学者としていただいたのは、誤読とはいえ望外の喜びでした。

 今日の論語は、公冶長第五の11節から15節までです。

5-11 子曰,吾未见刚者,成对曰,申,子曰,也欲,焉得刚,
(子曰わく、吾れ未だ剛者を見ず、或るひと対えて曰わく、申棖と。子曰わく、棖や慾なり、焉んぞ剛なることを得ん。)
5-12 子贡曰,我不欲人之加诸我也,吾亦欲无加诸人,子曰,赐也,非尔所及也,
(子貢が曰わく、我れ人の諸れを我れに加えんことを欲せざるは、吾れ亦た人に加えんこと無からんと欲す。子曰わく、賜や、爾の及ぶ所に非ざるなり。)
5-13 子贡曰,夫子之文章,可得而闻也,夫子之言性与天道,不可得而闻也已矣,
(子貢が曰わく、夫子の文章は、得て聞くべきなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからざるなり。)
5-14 子路有闻,未之能行,唯恐有闻,
子路、聞くこと有りて、未だこれを行うこと能わざれば、唯だ聞く有らんことを恐る。)
5-15 子贡问曰,孔文子何以谓之文也,子曰,敏而好学,不耻下问,是以谓之文也,
(子貢問うて曰わく、孔文子、何を以てかこれを文と謂うや。子曰わく、敏にして学を好み、下問を恥じず、是を以てこれを文と謂うなり。)
 
 今日の魯迅箴言は、箴言41から箴言45までです。

41 防被欺。自称盗贼的无须防,得其反倒是好人;自称正人君子的必须防,得其反则是盗贼。 (欺(騙)されるな。自称、盗賊には要人無用、裏返せば善人である。自称、正人君子(聖人君子)にはぜひとも注意すべし、裏返せば盗賊である。
42 捣鬼有术,小有效,然而有限,所以以成大事者,古来无有。 (べてんには術(わざ)があり、効き目もあるが、限界がある。それゆえ、ぺてんで大事を成した者はかつていない。
43 谣言这东西,却确是造谣者本心所希望的事实,我们可以借此看看一部分人的思想和行为。 (謡言(デマ)というやつは、たしかに張本人が心底から願っている事実だから、我々はそこから、一部の人間の思想と行為を見てとれる。
44 古今君子,每以禽兽斥人,殊不知便是昆虫,值得师法的地方也多着哪。 (古今の君子は、禽獣にたとえて人をとがめるが、虫けらにさえ、人の手本に値することが多いのを知りもしないのだ。
45 大众虽然智识没有读书人的高,但他们对于胡说的人们,却有一个溢法;绣花枕头。这意义,也许只有乡下人能憧的了,因为穷人塞在枕头里面的,不是鸭绒;是稻草。(大衆は、読書人ほど高い知識をもたない。しかし、出まかせを言う輩には謚を捧げる術をもっている。いわく「刺繍の枕」この意味は、おそらく田舎者にしかわかるまい。貧乏人が枕に詰めるのは、鴨(アヒル)の羽毛ではなく、稲の藁なのだ。