柿が好きで、「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句まである正岡子規には柿の句のほかに、牛肉の句もあるくらい食いしん坊だったらしい。それも、子規が健啖家であったことの証拠ですが、病気のために三度の食事が楽しみとしていた以外は、自宅で弟子たちとの句作、句会での語らいと俳句短歌研究しかできなかったからだと思います。
その牛肉好きの子規も明治34年5月に歯を痛め、それ以降、亡くなるまで牛肉が食べられなくなったことが痛ましいのでした。
今日の子規歳時は、
霜早き根岸の庭や霜掩ひ (1898年、明治31年11月18日)
子規が根岸に新居を構えたのは、日本新聞入社が内定したためでしたが、単に就職が決まって家を持ったのとは違い、子規が大事業に打って出る「城」を構えたのだ、と柳原極堂は力説しています。