三浦雅士さんの「身体の零度」を読む

イメージ 1 今年の1月1日に発表された東奥文学賞の選者の一人が文芸評論家の三浦雅士さんである。彼の本「身体の零度」のカバーの裏に記された著者の略歴によれば、彼は1946年青森県生まれとある。弘前高校卒業で、「ユリイカ」「現代思想」の編集長を経て、批評活動を展開して今日に至るとある。
私は表題の「身体の零度」の意味に惹かれた。はしがきに津軽の言い伝えの「夜爪を切れば、親が死ぬ」が出てくるし、「抜けた乳歯は紙にくるんで床下に投げ入れなければならない」とか、「吹雪の翌朝、新雪に横たわった空を見上げた後、雪面にできた人型を消さないでおくと、鳥についばまれると死ぬ」とか、という津軽の身体にまつわる話について書いている。
こうした身体をめぐる言い伝えやタブーはおびただしくかつてはあったのに、いまは、あらゆるタブーから解放されて、人間はただ純粋にその身体に向き合っているように見えると三浦雅士さんは指摘する。人間はあらゆる虚飾を剝ぎとって、自分自身の裸の身体、「身体の零度」に立ち合っているように見えるという。ここで、「身体の零度」(身体という座標軸の原点)の意味が漸く分ったのだった。
この半世紀あいだにこうした身体をめぐるタブーからどうして解放されたのかを解き明かすのがこの本の主題であった。しかも、筆者の三浦雅士さんが舞踊に凝っているとわかって合点でした。
この本の中で、私の興味を引いた箇所は、身体加工の例として中国の纏足にふれている箇所だ。ユン・チアンの『ワイルド・スワン』とパール・バックの『大地』を例に残酷な身体加工が「野蛮は文明に接し、文明は野蛮に接する」からだと書いている。私は長春の大学で吉林大学の于教授から、日本民族が中国文化を吸収しなかった三つの制度・習慣の一つに纏足があると聞いたのを思い出した。他の二つは、科挙制度と宦官である。私は、この本で科挙制度はともかく、宦官にふれていないのはなぜかと、少々気になったのである。