満洲の浪漫

 四世紀といえば、中国の東北地方、満洲の歴史の中でツングース族が起こした北朝鮮まで一帯の王国があり、その名を高句麗といったようです。平壌へ遷都されるまで、首都だったのが集安であり、そこに好太王の石碑があるのです。その石碑は高さ6メートルにも及ぶ大きな石碑で四面に文字が刻まれていました。好太王碑と太王陵のある丘陵一帯は集安市博物館になっていて、この石碑が発見されてからの歴史が博物館に写真資料として展示されていました。何しろ1600年前の石碑ですからだいぶ刻まれた文字も風化していて、拓本のコピーも展示されていましたが、一番きれいなのが東京大学文学部所蔵の拓本だったのが、私にはうれしく感じられました。
 高校時代の世界史の教科書によれば、「満洲の南部には戦国以来中国文化が波及していたが、北部には半農半猟の比較的未開のツングース族が住み、漢代以後ようやく中国文化の影響を受けてめざめた。高句麗(?~668)はこのツングース族がおこした国家である。」と記されています。高句麗という国は、いわゆる三国時代(220年から280年)に存在していたようで、後漢を奪ったあの魏(曹操)、呉(孫権)や蜀(劉備)らとならんで、一歩も譲らず、満洲から朝鮮北部に君臨していたのでした。その後、魏の司馬炎のたてた晋が一時、中国を統一(西晋)し(265年)てからも鴨緑江の集安を居城とする高句麗は存続し、晋の滅亡後の東晋五胡十六国時代北魏・宋以降の南北朝時代を経て、隋の時代まで続いたのです。隋の三度の高句麗討伐の失敗で隋はほろび、唐が618年に中国を統一し、唐帝国を建設したことになるのです。
 日本はこのころ、遣隋使、遣唐使で中国と親交を深め、朝貢によって中国文化の輸入を図っていたのでした。こうしたなか唐は満洲・朝鮮に出兵し、高句麗(668年)・百済を滅ばしえいったのでした。
 このときすでに高句麗の居城はすでに集安ではなく、鴨緑江をわたりいまの北朝鮮平壌に移っていたのでした。高句麗が唐によって滅ぼされた背景には、同じ朝鮮半島の南端の新羅が唐と連合して挟み撃ちにしたことがあったとされています。こうしてみると、満州朝鮮半島は中国と日本とも関係しながら、1650年前から1450年前の二百年の間に壮大なドラマがあったことが好太王碑からも想像されるのです。あの遣唐使が、唐の都長安・洛陽などへは、東シナ海から、朝鮮沿岸部から陸路で、満洲華北へとたどったコースもあったということから、6世紀・7世紀の日本と満洲とのつながりも深いことがわかります。