瀋陽とはどんなところ

 瀋陽は古い町です。市名の瀋陽は「瀋水の陽」という意味で、市内南部を流れる渾河の古名である瀋水の北に位置することから瀋陽と名付けられたといわれています。その歴史は大変古く、いまから7200年前にすでに定住集落があった(新楽遺跡)ことが知られています。
 唐の時代には瀋州が置かれ、元の時代には瀋陽路、明の時代には瀋陽中衛が設置されたということです。
 また、17世紀の初めに、満州族ヌルハチが後金を建国し、瀋陽を都と定め、城を構えました。1634年には盛京(満州語でムクデン)と瀋陽から改称されました。その後、後金は国号を清と改め、1644年には明朝の滅亡後、ほぼ中国全土を支配して、北京に遷都されてからも副都として、1657年には奉天府として、形式ながら中央政府に準じた官制がしかれました。現在残っている瀋陽故宮は当時の副都としての清朝離宮として、盛京皇宮と呼ばれていました。
 瀋陽故宮は、1625年に建てられた後金の二人の皇帝ヌルハチホンタイジの皇居であり、建築様式は漢民族満州民族、蒙古民族の様式が融合されたものとされています。規模は、北京の故宮紫禁城)の12分の1といわれますが、私の見た限りではかなり広大な敷地にいくつもの殿が並んで建っていました。とりわけ、大政殿まえの石畳の広場と両側に建つ十王亭は壮大なものでした。瀋陽故宮は清の時代に北京に遷都されてからは、離宮として使われ、とくに6代の高宗(乾隆帝)の時代には、学芸文化を奨励し、瀋陽故宮で「四庫全書」などを編纂させたといわれています。
 瀋陽故宮博物館には、こうした後金時代に建立された皇宮がそのまま残され、それが唐代に離宮となってからの文化財がそのままほぞされています。しかも、北方の少数民族である満州族が中国全土を制圧し、清王朝の全盛期にも副都・離宮として、科挙制度などで官僚、学者、文学を奨励した歴史をうかがい知ることができました。
 私が12日の夕刻到着した瀋陽は、隣の省の省都である長春より遙に都会で、東北三省の中心都市としての機能と威容を誇っていました。現代的なビル群と古い建物が融合し、近代的な輝きの中に落ち着いた雰囲気をもつ古雅の都の風情を漂わせていました。
 12日の夜、私たちはタクシーを飛ばし、日本料理屋「京橋」で日本料理に舌鼓をうったのでした。