長春の暗闇と梶井基次郎の暗闇

イメージ 1  先週の土曜日、中国問題の専門家の報告を聴きに池袋に行ったついでに横浜の次男夫婦と孫を呼び出し、新宿で食事をし、翌日、研究会が終わった後、9月25日に結婚する娘と品川で落ち合い、飛行機までの時間に駅そばのビルで寿司を食べた。
 前夜は、次男から、中国香港に本社のある航空会社へ転職の試験を受けるべきか否かの話をされ、いささか動揺して、眠れなかったのも事実であった。試験に受かり、いざ採用となれば、香港を拠点として、日本と中国を往復する便に乗務することになるという。
 そうなれば、長男はNY、次男は香港、そして娘は東京という風に3極にわかれて3人の子が居住することになる一方、私たち夫婦と三男は東北の片田舎でひっそりと暮らすという極めて極端な家族となるわけだ。
 そんなことを考えながら、飛行機の座席ポケットに挟まったskywardなる雑誌に目を通してみた。
 何気なく雑誌をめくっていると、94ページに浅田次郎の書く「つばさよつばさ」が目に入った。何と冒頭に「十五年ぶりに長春を訪れた夜」とあったのに目を瞠った。この雑誌は8月号だから、浅田次郎は少なくとも7月以前に長春にいたことになる。カバは7月9日に長春に着いた。彼の文章には訪問時期は明らかではないが、「すがすがしい夜気に誘われて」とあるから、おそらく長春の短い春の6月のことだと思われる。偶然のことだが、私は日本ペンクラブ会長とほぼ同じころ長春に居合わせたことになる。
 浅田次郎が何の目的で長春を訪れたのか、興味のあるところだが、それはさておいて、連載エッセーの本文に驚かされたのである。「北京も上海も急速に様変わりしてしまったが、東北のこの町にはさほど大廈高楼が林立しているわけではなく、いきおいその夜の闇は広く濃かった」とまさに、長春を的確に表現している文章にであったからだった。私は繁華街の重慶路にも、桂林路のホテルにも泊ったことがないので、長春の夜の町をそぞろ歩いたことはない。長春の夜の闇がとても怖くて、ひとりで歩いたことなぞなかった。たまに外出し、人と一緒でも建物から出ると死に物狂いでタクシーを捜してばかりいた。
 私のいた外国人教師の宿舎も門限があった。夜の10時だった。寮の消灯時間が10時半なので、門限前のキャンパスは明るく、闇夜を経験することなく4カ月を過ごしたから、浅田次郎の表現は新鮮に響いた。ただ宿舎のベッドから見上げる窓の外が、異様な闇としてひろがっていたのを憶えているだけだった。
 浅田が書いているのは、それだけではなかった。大通りのプラタナス並木が夜空を覆いつくす森の都・長春の広大な闇のなかに、梶井基次郎の『闇の絵巻』を思い出すのだ。しかも、「虹色のぼんぼりを灯した食堂から男がひとり出てきて、じきに闇の中に消えた」と書き、これはまさに『闇の絵巻』の一場面(自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えていくのだ)そのものだというのだ。
 梶井基次郎が病床で『闇の絵巻』を書いたのは昭和5年(1930年)29歳のときで、その翌々年(1932年)3月1日に長春(当時は新京)を首都に満洲国建国宣言がなされ、その年の3月24日に梶井は死んでいる。
 浅田は単に『闇の絵巻』を一作家の個人的境遇による感性としてだけでなく、歴史と文学史の年譜を重ね合わせ、作者が本来立ち入るべきでない社会事情を作品に託したと読み解くことによって、「(消えゆく)一人の男」を「日本」と客観視することができるとする。
 梶井やその五年前に自尽した芥川龍之介などの文学者の存在と死の自分なりの解析は文学に携わる者の良心であり、使命でもあると浅田はいう。その点では、梶井の透徹した視線を「死にゆく者のみが持ちうる感性」と『末期の眼』で評した川端康成のことを、芥川や梶井の存在と死を文学的解釈のみに徹して封じ込めたこととともに、浅田は超人と評している。
 長春の安らかな闇に思いを残して東京に戻った浅田次郎は、東京の夜が節電の影響で余分な光は消えているものの、世界中のどこよりも過剰な光に満ちていることを感ずる。
 かつて、日本はちょっと風が吹いただけで何の予告もなしに停電し、家庭に蝋燭や懐中電灯は必需品だった。しかし、そうした暗い夜はなぜか安息に満ちていたと浅田は述懐する。だから、節電などというさもしい言葉ではなく、私たちが安らかな闇を取り戻したのだと思うべきだと主張する。
 私も浅田次郎にならって、ここに梶井基次郎の『闇の絵巻』の末文を引用しよう。
 「街道の闇、闇よりも濃い樹木の闇の姿はいまも私の眼に残っている。それを思い浮かべるたびに、私は今いる都会のどこへ行っても電灯の光の流れている夜を薄っ汚く思わないではいられないのである。」
 写真は、大連の夕刻の星海広場と手前の岸壁で釣りをする市民