孫文の三民主義から中国革命まで

イメージ 1  1911年10月10日の武昌における清朝政府に対する反乱挙兵が全国に飛び火し、清朝が亡び、辛亥革命が成就した。1912年1月1日、南京に臨時革命政府が成立し、孫文が臨時大総統に選出された。
 孫文が唱えた三民主義は、「民族の独立・民権の伸張・民生の安定」を標語とし、中国を「ブルジョア民主主義革命」によって変革することをめざしたものである。孫文の革命認識は、その「三民主義」にあらわれているように、中国民衆が伝統的な農村社会のなかで「一粒の散沙」でしかない状態を深刻に認識し、そのような状況から脱却して、中国を中央集権的な近代的立憲国家として再生させようとしたところにあった。
 こうして、日本が1867年に大政奉還して江戸幕府の幕を閉じ、翌1868年から始まる明治維新によって近代化に踏み出したのと、それから遅れること44年経って中国の近代化が始まったことになる。
 しかし、辛亥革命の成果は、強固な近代国家建設へと受け継がれることはなく、まもなく袁世凱を中心とする軍閥政治へ実権が移され、革命の成果は次々と打ち捨てられる結果となった。
 一方、辛亥革命を指導し、それに挫折した孫文は、やがて中国革命同盟会から中華革命党、さらには中国国民党へと組織を発展させ、従来の三民主義から発展した新三民主義(連ソ・容共・工農扶助)のスローガンを掲げ、新しい民族革命をめざしていた。これは、孫文にも1917年のロシアの十月革命勝利が与えた影響は少なくなかったことを物語っている。
 こうして1924年には中国国民党中国共産党との間で、第一次国共合作が成立し、やがて北方の軍閥政権に対して共同で戦うことになっていった。そして、1926年7月、国共合作下の国民革命軍による北伐、つまり北方の軍閥打倒をめざす新しい国民革命が始まった。
 この国民革命は、広東から出発し、軍閥打倒の歩みを順調に進めていったが、かねてより革命勢力内部における共産主義者の伸長を懸念していた国民革命軍総司令官の蒋介石は、1927年4月12日上海クーデターを起こすとともに、共産党勢力の排除と弾圧に乗り出していったのだった。さらに、国共合作下で国民党左派と共産党との連合政権として成立していた武漢政府も崩壊し、やがて国共は完全に決裂して、第一次国共合作は悲劇的な失敗に終わったのだった。
 こうした中にあって、中国共産党のなかで毛沢東が徐々にその地歩を固めつつあった。1931年1月、ついに毛沢東は党内主導権の確立に成功し、当時、1931年9月の満州事変勃発以後、日本軍が満州から華北に対して進出を続けていたが、これに対し、蒋介石軍との戦いよりも、抗日のための戦いを強いられることになった。
 1935年8月、中国共産党は、抗日統一戦線の結成を訴えた「8・1宣言」を発し、全人民に向けて民族統一戦線の形成を提唱した。
 翌1936年12月、蒋介石の部下であった張学良が西安事変を起こし、蒋介石を軟禁し、蒋介石に抗日民族統一戦線の結成を迫った。中国共産党の調停で蒋介石が釈放され、西安事変が解決されるや、ここに第二次国共合作が実現し、中国では全国的な規模での抗日民族統一戦線が形成された。
 毛沢東の革命構想は、抗日戦争を遊撃戦と持久戦によって勝ち抜くという方向へ転じ、強烈な民族的使命感に裏打ちされて、ここに新たな展開を遂げていくことになった。その後、幾多の変遷をへて、中国共産党を担い手とした中国革命1949年に達成され、社会主義をめざす中華人民共和国毛沢東国家主席として誕生したのである。
 中国共産党1921年7月に創立大会を開いており、今年がちょうど創立90周年にあたる。
 写真は2011年7月、中国共産党創立90周年にわく天安門前広場。