新たな発見「好太王碑の碑文」と日本

イメージ 1  私は7月11日に集安市博物館で好太王の石碑を見てきた。そして、石碑の写真を撮り、石碑の碑文の拓本も見てきた。拓本のコピーが資料館に展示されていたが、その中で一番はっきり写しとられていたのは、東京大学文学部に所蔵されているものであることもわかった。しかし、碑文の内容については、日本との関係が記されているというだけで詳細は分からなかった。中国の説明文も難しくて理解できなかった。
 日本に戻ってきて、高校時代の世界史の本や広辞苑で調べてみたが、碑文の意味から日本との交易史にかかわる記述を探すことはできなかった。
 しかし、今回の中国の旅で、中国と日本、とりわけ満州を介してその歴史を辿ることに興味をいだいた私は、日本史の教科書を探しだして読むうち、ついに好太王碑の碑文に見る日本を知ることができた。歴史家にとっては、とっくに知っていることかもしれないが、初めて集安を訪ねて好太王碑に巡り合った者にとっては、45年前に使った教科書にその記述を見出したのは、望外の喜びであった。
 高校日本史(山川出版)の「第2章古代国家の形成」、その「第1節大和国家の成立」のなかに次のような記述がある。
 「大和朝廷天皇の祖先を中心とする大和朝廷は、伝説では九州の日向地方からきたというが、おそらくは大和平野の南部におこったものであろう。
 その大和朝廷は、比較的短期間に、畿内を中心に東は中部地方から西は九州までを統一した。統一の時期については、邪馬台国が大和にあったとするか、北九州にあったとするかによって異なってくるが、いずれにしても、朝鮮半島に進出する4世紀の中ごろには、日本の統一はおわっていた。この後、大和朝廷は関東・東北の蝦夷・南九州の熊襲などを征服したばかりでなく、朝鮮半島のすぐれた文化や鉄などを求めて積極的に海外進出をこころみるようになった。
 すでに朝鮮半島は紀元前2世紀の末、漢の武帝によって征服されて直轄領となったが、3世紀に中国の政治的混乱でその圧力が弱まったために、国家統一の気運がおこり、早くからある高句麗に加えて4世紀には新羅百済などの統一国家が成立した。ただ、半島の最南端部は統一が成立しないうちに大和朝廷支配下にはいった。大和朝廷はここを任那と名づけて半島経営の根拠地とし、百済新羅を圧迫するとともに、南下してきた高句麗の軍と戦った。その経過は高句麗好太王の碑文などに記されている。その間、百済は終始日本の援助を受けたが、新羅高句麗と結び、5世紀にはその国力を充実してしだいに日本の立場を苦しくさせた。
 中国の歴史書によると、このころ、倭の五王(讃・珍・済・興・武の五王で、済以下は允恭・安康・雄略の各天皇にあてられる、讃には応神・仁徳・履中天皇をあてる諸説があり、珍にも仁徳・反正天皇をあてる2説がある)は南朝の宋などに朝貢し、しばしば使節を派遣した。これは外交交渉によって、朝鮮半島における日本の立場を有利にしようとするものであった。しかし、その成果はあがらず、半島における日本の勢力は減退するばかりであったが、この南朝との交渉は朝鮮とくに百済との交渉とあいまって、朝廷の文化の向上に役立った」
 このように4世紀の高句麗の都であった丸都(いまの集安)は、半島の最南端に大和朝廷によって建国された任那を根拠地に百済新羅とともに南下してきた高句麗とも戦っているのである。
 好太王碑は、好太王(広開土王)一代の事業を記した碑で、当時の満鮮事情を知るための貴重な資料となっている。このなかには、「百残(百済新羅は旧是属民なり。由来朝貢す。而るに倭辛卯の年(391)を以て来りて海を渡り、百残□□新羅を破り、以て臣民と為す」と書かれてあり、当時すでに日本が朝鮮半島に進出していたことを伝えている。
 写真は、7月11日に写した好太王碑である。