末期の眼を読みすすむうちに、芥川龍之介の中国上海旅行でなにがあったのか、夏目漱石の満州旅行で何を感じたのかについて興味がどんどんひろがったのでした。かの正岡子規も不治の病いに冒される前に中国を旅をしていたことも知りました。
二歳までに両親が相次いで亡くなり、十歳の時に姉も失った川端康成が、天涯孤独のなかで青春を過ごし、死と向き合いながら文学、とりわけ小説を書き続けたことの神髄が末期の眼を読むとよくわかります。
浅田次郎が長春に旅したことを書いている文章を紹介します。その一文を読んで、長春に目をひかれ、梶井基次郎を思い出し、川端康成の「末期の眼」にふれてびっくりし、最後に福島原発事故に心を痛めたのでした。
「十五年ぶりに長春を訪れた夜、何とはなしにホテルから出た。
北京も上海も急速に様変わりしてしまったが、東北のこの町にさほど大廈高楼が林立しているわけではなく、いきおいその夜の闇は広く濃かった。
すがすがしい夜気に誘われてそぞろ歩いているうちに、梶井基次郎の『闇の絵巻』を思い出した。
闇は私たちにとって不安と絶望そのもので、よほどの勇気を持たなければその中に踏みこんでゆくことはできない。しかしいったんそうした意志を捨ててしまえば、闇は明るい場所では得ることのできぬ深い安息を私たちに与えてくれる――。
長春の夜は暗い。街灯は整備されており、店々は赤いネオンを灯しているのだが、とうてい広大な闇を押しのけられはしない。光という光はすべて、過ぎ去る車のヘッドライトさえも、闇に置かれた点にしか見えぬのである。
たしかに梶井の書いた通りであった。ホテルを出てからしばらくはおずおずと歩いていたのだが、そのうち次第に心が安らいできた。
それは梶井が文章の中で示唆したかもしれぬ、死生観などという大それたものではない。自分自身が闇に親和し、やがて溶け入り、実体のない魂になってしまったような安息であった。
ふしぎな気分でしばらく歩くと、紅色のぼんぼりを灯した食堂から男がひとりでてきて、じきに闇の中に消えた。そのさまはまたしても『闇の絵巻』の一場面であった。
梶井が病床で『闇の絵巻』を書いたのは昭和五(1930)年、二十九歳のときである。そしてその翌々年三月一日に満州国建国宣言がなされ、同月二十四日に梶井は死んだ。
彼と親交のあった川端康成は、梶井の透徹した視線を『末期の眼』、すなわち死にゆく者のみが持ちうる感性と評した。
しかしどうであろう。歴史と文学史の年譜を重ね合わせてみると、一作家の個人的境遇ばかりでない巨大な社会事情が、文学作品の上にもあまねくのしかかっているように思えるのである。もし仮に、梶井が個人の感性と見せかけて、本来文学者が立ち入るべきではない社会事情を作品に託したと考えれば、『闇の絵巻』はまったくちがったものと読める。つまり先の引用箇所にある「一人の男」は、病床の梶井が客観した「日本」なのではあるまいか。そう考えると、引用の末尾の「消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった」とわかりづらい表現も、まこと腑に落ちるのである。
いかに「紅旗征戎わがことにあらず」と嘯いたところで、文学者もまた国民の一人にすぎない。梶井の死の五年前に自尽した芥川龍之介が抱えていた「漠然とした不安」の中には、大陸に活路を拓かんとする日本の社会事情も、当然影を落としていたであろう。時代の旗手を唐突に喪った後進たちが、その「漠然とした不安」をなおざりにしたとは思えない。たとえば後年、三島由紀夫や中上健次の突然の死にうろたえたおのれを考えれば、その存在と死の自分なりの解析は文学に携わる者の両親であり、使命でもあるからである。
それにしても、芥川や梶井と同時代に生き、なおかつ親交がありながら、その存在と死を文学的解釈にのみ徹して『末期の眼』に封じこめた川端康成は超人である。
さて、長春の安らかな闇に思いを残して、東京へと帰ってきた。
節電は今や全国民の合言葉で、お上あれこれ言われるまでもなく、余分な灯りは消えている。それでも中国から帰ってみると、たいそう明るく感じられる。いや、こと中国に限らず、世界中のどこの都市と較べても東京の光はそもそも過剰なのである。
思い起こせば子供の時分、東京はやはり暗かった。夜っぴて灯りのともる家やオフィスはなかったし、盛り場のネオンも夜更けには消えた。裸電球に笠を被せた街灯が、路上にぼつぼつと光の輪を落としていた。
そのうえ、ちょっと風が吹いただけで何の予告もなしに停電した。懐中電灯や蝋燭は家庭の必需品であった。しかし、そうした暗い夜は安息に満ちていた。
節電などというさもしい言葉ではなく、私たちは安らかな闇を取り戻したのだと思うことにしよう。」
浅田次郎の文を読んで、いい文章にめぐり合った幸せを感じたのでした。