週末の無理がたたり左足から右足に傷みが移行

 4日金曜日になっても左足の痛みは引かず、しかたなしに5日の弘前菊祭りバス旅行をキャンセル。そんなわけで、5日6日の週末は、二階の書斎にこもり、次男の使っていたパソコン台を持ちこみ、テレビで映画をを見ながら、校正の調べ物の検索とメモ、それに小説書きを断続的に続けた。左足の腫れは残っていたが、しだいに踵の痛みは小さくなっていた。それと同時に、左足の痛みが親指の違和感だけになったのに、こんどは右足親指にも同様の違和感が始まった。
 日曜日の午後には、階段の上り下りにもそんなに苦痛を感じなくなっていた。まだ、左右の足親指の違和感は残っていたが、やっとちょっと左足に触っただけでも激痛が走る痛風の痛みから解放されたとよろんこんだのいけなかった。
 本の校正の本文のつき合わせは終わっていたものの、注釈やあとがきのつき合わせが残っていた。ゲラに脱落がないか、本分と原稿のページの照合とあわせなど、1日に痛風になってから、やり残している仕事が残っている。
 テレビで日曜映画劇場で「悪人」を観てから、こうしちゃいられないと思った。
 それで、一念発起して、校正の仕事にとりかかった。「論語」や「詩経」と首っ引きで脚注の照合に時間がかかるが、実に面白い作業だった。論語詩経の中から脚注の個所を探すのが、宝探しみたいで気持ちがいいのだ。見つけたときの快感が、二三日前の苦痛苦悶の日々を忘れさせた。
 結局、全部終えたときには、夜も明け、七時も半ばを過ぎていた。その夜、二階の書斎は少し寒かった。私は、寒さも忘れて、つき合わせに没頭していた。
 仕事を一応終えて、整理して階下に降りた。左足の違和感は薄れていたが、右足の違和感が増幅しているように感じ悪い予感が走った。
 ほとんど野菜と水分しかとっていない食事だが、軽くご飯を食べ味噌汁も飲んで布団に着いた。そこまではよかった。目覚めたのは、午後1時前だった。
 布団から起き上がるのに、ここ1週間の癖で、右足からついて起き上がろうとして、その途端、激痛が走った。右足をつけなくなっていた。この1週間ほど、ほぼ最初の一歩と歩行中の全体重を支え続けていた右足がついて駄目になったのだった。
 「もう、駄目だ」と布団にもんどりうって、悲鳴をあげた。
 両手で机の縁と椅子の背につかまり、左足に体重をのせ、漸くのこと起き上がったものの、右足がつけない。左足に体重をのせ、恐る恐る右足をついてみたら、痛みはあったが立つことはできた。
 しかし、左足だって、完全に元通りになっているわけでもないので、スムーズに足が出ない。右足の激痛はすこしおさまったものの、右足をつくことの恐怖感が先にたって、右足を踏み出すことができない。1分くらい突っ立ったまま、「どうしてこんなことになったのだろう」とあれこれ考えてみた。懺悔と後悔しかなかった。
 女房が見とがめて、「どうしたの。また痛むの。だから病院に行ったらと、あれほど言ったのに…」と呆れ顔で部屋を覗いた。
 それでも、ようやく母のために作った手すりにつかまって漸く居間のテーブルまでこぎつけることができた。哀れな姿をみて、女房は笑っている。
 7日は月に1回の定例月曜会の日だ。今日こそ、這ってでも古川の事務所に行かなくてはならない。たった一人でも、友人が来るかもしれないからだ。
 風呂に入り、6日ぶりに伸びた髭を剃り、すっきりしてタクシーを呼んだ。出がけに、玄関先の傘立てに母が生前使っていた杖があるのに気付いた。杖を持って、玄関先に出るも、右足の痛みは相変わらずだった。
 月曜会は、自分も含めて5人が集まった。6時から8時過ぎまで、全員があれこれ語り合った。発言しない人はいない。大震災以後の暮らし向き、福島原発事故青森県内の原発・核燃サイクルを巡る課題、市政の課題、県政の課題、TPPや増税の問題、等など何時間でも話せる話題に事欠かなかった。
 事務所の急な階段の上り下りに難儀して、杖の有難味を実感しながら、浪岡の鎌田さんに送られて家に戻ったのが、8時半を過ぎていた。
 右足の痛みは変わらなかったが、こんな状態でも月曜会を終えた安堵感と空腹感が一挙に出て、三男の食べ残しの豚肉ソテーで二膳もご飯を食べ、食後にこれも三男が女房のために日曜日に買ってきたケーキを食べて寝女にやっとのことで移動した。
 急な階段の上り下りとソテーとケーキが悪かったのか、その夜から右足の痛みは頂点に達した。左足の時よりひどかった。起きているのも、眠るのもままならない、痛みだった。