巧言令色の次は、剛毅木訥

 昨日は、「巧言令色、鮮し仁」をとりあげた。つまり、中野孝次の表現を借りれば、「ことば上手で弁舌さわやか、表情は(人)当たりがよくて、にこやか、といった人間で、仁なる者はまずいない」ということだ。
 これは現代においても、よくあてはまる。
 今日は、巧言令色とは反対に、どんな人がそれでは仁に近いのか、孔子はどう言っているのか、をみてみる。
 子路27に「剛毅木訥」の節がある。
 「子曰、剛毅木訥、近仁、」
 「子曰く、剛毅木訥は、仁に近し。」
 これを、中野孝次はこう訳している。
 孔子さまが言った、
 「剛毅木訥は、仁そのものではないが、仁に近いと言ってよい」
 と。
 論語の古注によれば、剛は無欲、毅は果敢、木は質樸、訥は遅鈍といい、この四者が仁に近いのだとする。このように一語一語分けて解すると、逆に言葉の力・意味が失われてしまうような気がしてしまう。四文字全部を一つの熟語として味わうことによってこそ、この言葉の重みがでてくる。
 荻生徂徠は古注をはねつけ、「剛毅木訥はけだし古への成言にして、剛毅の人は、多く是れ質樸にして言に拙し。ゆえに剛毅木訥と曰ふ」と言っている。この方が正しいようだ。
 このように孔子は、巧言令色な男より、剛毅木訥な男を好んだことがはっきりわかる。
 実社会では、巧言令色な男の方があたかも仁のように扱われ、剛毅木訥な男の方は煙たがられるというのが実際である。表面的な見てくれだけが重視される社会となっている。これには、新聞・テレビ等のメディアの影響によるものが大だと思う。
 事業の業績のいかんを問わず、口の達者な者は忌まれ、口が重いくらいをよしとする風潮をつくり出さなければならない。性格はしっかりしていて曲がらず、気性の強く固いのを尊び貴ぶような気風をつくりださねばならないのだ。そうしないと日本は滅びてしまう。
 ともかく、巧言令色の対極にある徳が剛毅木訥なのだ。それが、孔子によって、仁に近いとの評価を受けているのだ。
 また、孔子は理仁24でこうも言っている。
 「子曰、君子欲訥於言、而敏於行、」
 「子曰く、君子は言に訥にして、行に敏ならんと欲す。」
 つまり、中野風に日本語に訳すとこうである。
 孔子さまが言った、
 「君子たる者は、物言いにおいてはむしろ口べたで、行動実践においてこそ敏捷でありたいものだ」
 と。
 ここでも言は訥、口べた、口が重いほうがよいとされている。孔子の思い描く「君子」たる者の像がうかがえる。
 中野孝次の言を借りるまでもなく、孔子の人間の好みは、新時代の先を行く切れ者よりも、どちらかといえば、重く口べたな昔風の男にあったということになる。
 孔子が現代に登場し、テレビに登場する頭の動きの素早い、物言いの速く、言葉数の多い橋下徹大阪市長のようなタレント政治家連中を見たら、なんと言うだろうか。