2011年12月20日

 今日は、午後6時半から「大慶びの会」(棟方清隆、千葉慶三、奈良岡慶三、笹田隆志)の4人会の忘年会だ。昨年帰国して、2月に会ってから、何かと忙しくて会っていなかった。慶三が二人いるので、慶が三つ上に一つ、下に二つで造語して読みを大慶び(おおよろこび)とした。千葉慶三が作る濁酒の名前も大慶びと名付けた。来年も新米でつくった大慶びが呑めると思うと嬉しい。
 
 昨夜は、日本経済の勉強をして、12時半に寝床に入った。井上靖の「孔子」を読んでいるうちに眠ってしまった。朝は七時前に置き、新聞を読み、七時半前に車庫の車を出す。青森は大雪だ。昨日を車庫前を午前中に除雪したのに、今朝にはさらに25センチほど積もっている。すっかり冬景色になってしまった。灰色の空を眺め、テポドンは飛んで来ないよな、と呟いた。
 三男を柳町まで送って戻ってくると、丁度、8時だった。朝食を食べ、朝風呂に入って、着替えをしたらもう9時になっていた。今日は、二階の書斎で「海神」を観ることにした。大雪でBSのアンテナがきかなくなって、一階のテレビではみれないからだ。それで、二階の書斎のケーブルテレビにしたのだ。
 二階の書斎のロッキングチェアは、揺れないように書棚にくっつけてあるので、パソコンデスクを手前に引いて、ノートパソコンを開いて一日の作業を開始する。二日ぶりのノートパソコンなので、プログラムの更新に30分もかかった。
 于航先生からもらった鉄観音を王粟星の来日土産の急須で淹れて飲む。電気ポットで湯を沸かし、水は二階の流しから汲む。インターネットもテレビもケーブルテレビだ。6畳の書斎の東書棚に凭れて坐り、西の窓際に置いたテレビの受像機に対面し、目線の下部にはパソコンのディスプレイ。そんな状態だ。書斎の西窓からは家の前の道路と近所の家の背後には岩木山の真上の空がのぞく。近所の家の屋根にはすでに40センチもの雪が積もっている。
 チェアの左手の窓からは、細かな水滴が白くガラスの表面張り付いて、向かいの家の二階の窓や壁がぼんやりみえるだけだ。近くで見えるせいか、向かいの家の屋根には50センチどころか60センチも雪が降り積もっている。窓の手前の車庫の屋根には、真っ白な雪がこんもり覆い尽くされてしまっている。
 さて、今日の魯迅箴言にとりかかろう。
 「地球上不只一个世界、実際上的不同、比人們空想中的陰陽阳両界迩利害。
  逐一世界中心、会軽蔑、憎悪、圧迫、恐怖、殺戮
  別一世界中心、・・・」
 「地球上の世界は一つではなく、
  現実の相違は、空想上の陰(あのよ)と陽(このよ)の世界の違いよりもっと凄まじい。
  ある世界の人間は他の世界の人間を、
  軽蔑し、憎悪し、抑圧し、恐怖し、そして殺戮する・・・」
 
 ここでの世界とは、一つの国のことである。地球上の国は一つではない。現実の国と国との違いは、空想上の天国と地獄よりも相違がはっきりしていて凄まじいのだ。一方の国の人間は、他の国の人間を、軽蔑し、憎悪し、抑圧し、恐怖し、そして殺戮までもする、くらい凄まじいと、魯迅は言っている。
 西洋人と東洋人の国々の争い、相違だけではない。国と国だけでなく同じ国の中でもこんなことはたくさんある。それは、いまは同じ国でも、もとは別々の国だったからだ。アメリカの白人と黒人の歴史をみてもわかるし、イギリスの北アイルランドでの地域紛争をみてもわかる。宗教の違いによる争いもある。ユダヤ教イスラム教の争いもあるし、仏教とヒンズー教の争いもある。仏教とマルクス主義のあらそいだってある。
 この箴言では、世界、すなわち、国を人種、宗教に読み替えればいいのだ。階級、階層、地域、集落・部落、さらには健康・不健康、趣味などにも適用できるのだ。最後は、性、つまり男女の心の違い、男女間はおろか、人と人の個性にまで及ぶ。魯迅は恐ろしいことを言っているのだ。
 人間の欲と業に始まるい争いは、最初は軽蔑に始まり、次に憎悪となり、さらには恐怖感がつのり、最終的には殺人・殺戮までいたるというのだ。
 国が違っても、人種や階級・階層が異なっても、宗教や生活習慣が異なっても、決してその違いを増幅させて軽蔑に至らないようにしなければならない。同じ人間なのだから、愛情と思いやりこそが、世界をひとつにする鍵となる。
 北朝鮮金正日総書記が死亡し、世界が一つになる方向に行くのか、違いを際だたさせて、殺戮と崩壊に向かうのか、予断を許さない状況が生まれつつあるのだけははっきりしている。