老子の「学を絶てば憂えなし」

「学を絶てば憂えなし」は、「老子」異俗第二十章のことばです。
 「絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。乘乘兮若無所歸。衆人皆有餘。而我獨若遺。我愚人之心也哉。沌沌兮。俗人昭昭。我獨若昬。俗人察察。我獨悶悶。忽兮若海、漂兮若無所止。衆人皆有以。而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。」
 この漢文の読み下し文はこうです。
 「学(がく)を絶(た)てば憂いなし。唯(い)と阿(あ)とは、相(あい)去ることいくばくぞ。善と悪とは、相去ることいかん。人の畏(おそ)るるところは、畏れざるべからず。荒(こう)としてそれいまだ央(つ)きざるかな。衆人煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるがごとく、春台に登るがごとし。われひとり怕(はく)としてそれいまだ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)のいまだ孩(わら)わざるがごとし。乗乗(じょうじょう)として帰(き)する所なきがごとし。衆人はみな余りあり。而(しこ)うしてわれはひとり遺(わす)るるがごとし。われは愚人(ぐじん)の心なるかな。沌沌(とんとん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たり。われはひとり昏(くら)きがごとし。。俗人は察察(さっさつ)たり。われはひとり悶悶(もんもん)たり。忽(こつ)として海のごとく、漂(ひょう)として止まるところなきがごとし。衆人はみな以(もち)うるところあり。而(しこ)うしてわれはひとり頑(かたくな)にして鄙(ひ)に似る。われはひとり人に異なりて、母に食(やしな)わるるを貴(たっと)ぶ。」

 ここで老子は「学を絶てば憂い無し」と学問、すなわち相対知を得ることを頭から否定するようなことを言っているようです。ただ、この場合の学というのは、知識一般ではなく儒教のことであるという説もあるくらい、儒教の教えと対局をなす思想です。
 儒教では礼を重んじ返事のしかた一つも厳格に教えます。「唯」というのは日本語でいえば「はい」という返事で礼儀正しいものとされています。「阿」というのは、「ああ」というような感じで、あまりいい返事とはいえませんが、どちらも「わかりました」ということを言っているわけですから、意味においては違いがありません。
 このように、老子は形にとらわれた儒教的な考えを道に反するものとして位置づけています。そういうことから、この部分は儒教の礼学について述べていると見ることもできます。