老子について

 今日は、老子について書いてみる。
 老子(ろうし)は、古代中国の哲学者であり、道教を創案したとされる中心人物である。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられ、書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるが、その履歴については不明な部分が多く、実在そのものも疑問視されたり、生きた時代について論争が行われてもいる。道教のほとんどの宗派において、老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名をさえ持っている。
 中国の言い伝えによると、老子は紀元前6世紀頃の人物とされている。
 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋だと主張する者も多く、李氏の多くが彼の末裔を称している。歴史上、老子は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている。
 老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出されている。
 これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」,字は「耼」(または「伯陽」)という。楚の国の苦県(現在の河南省鹿邑県)、厲郷の曲仁という所の出身らしく、周国の守藏室之史(書庫の記録官)を勤めていたという。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために老子のもとに赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。
 老子は道徳を修めたが、その思想から名が知られることを避けていたともいわれる。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、かの地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる)に着くと、関所の役人である尹喜が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子がこれに応じたという。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい、その後の事は誰も知らない。
老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は古代中国ではマスター(達人)や英語の接頭語で敬称を意味するSirに通じる。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える。
 このたび、海流社から出版される予定の竹川弘太郎さんの『孔子-死生命あり』でも、孔子子路とともに、老子を尋ね、教えを乞うくだりが、両者の特徴とともに丁寧に描かれている。