宰相代行の孔子は魯の定公を諌めて職を辞す

 今日は孔子が生まれた魯という国について復習してみます。
 ウィキベディアによれば、魯という国は以下のとおりです。

ー魯(ろ)は、中国の王朝名・地名。地名としての魯は現在の中国山東省南部を指す。
 王朝としての魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、中国大陸に周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在した国である。代々の魯公(魯の君主)の爵位は侯爵であり、姓は姫(き)である。首府は曲阜。
 (孔子も尊敬する)周公旦(周王朝の開祖である武王の弟で、武王の子成王を補佐した)の子伯禽が成王によって封ぜられて成立した。
 春秋時代に入ってからは、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となる。しかも、国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、国政はたびたび混乱した。
 しかしながら、この混乱した小国が思想史・文化史に果たした役割は大きい。周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統を受け継ぎ、魯には古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、魯の出身である孔子であり、その一門である。孔子儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化というものがあったからともいえる。ちなみに孔子が魯に仕えていたのは若年時のみで、老年期まで各国に弟子と共に放浪していた。なお、「春秋」は、隠公元年(紀元前722年)から、哀公14年(紀元前481年)までの魯国の年次記録が基になっている。
 孔子の死後、国としての魯はますます衰退し、事実上三桓氏に分割されてしまう。魯公室は細々と生き残るが、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。ー
 魯国の都・曲阜郊外の昌平郷の陬邑に生まれた孔子(孔丘)は22代の襄公から25代の哀公の代までの治世の時代の人です。24代の定公の時代に宰相代理の職にまでつきますが、その後職を辞して、諸国に仕官先を求めて漂泊の旅を十数年も続けるのです。
 孔子は酒色におぼれ、政を省みない定公を諌めて受け入れられず、職を辞したのですが、それからは魯もそうですが、孔子とその門弟も苦難の道を強いられました。その過程の中で、論語に見られるように多くの教訓を残しました。
 今の中国がどの程度孔子を評価しているのかわかりませんが、日本においても、孔子の思想についてもっともっと評価されていいものと思います。