石沢さんの遺志を引き継ぎたい

 北狄同人最長老の石沢武さんの葬式には、三浦ふぢゑさんと青柳隼人の顔も見ることができました。結局、法事は三浦さんと二人が参加しました。小野さんは当日、体調不良のため医者に法事の出席を止められたとわざわざ奥様が葬儀場にお見えになられました。とにかく、小説同人誌「北狄」は服部先生に続き、かけがえのない同人であった石沢武さんを失ってしましました。法事のあと、お花をたくさん貰って、帰ってきました。あとは残されたわたしたちがせっせと小説を書くだけであると肝に銘じました。
 ついては、4日と5日は、わたしのもう一つのライフワークである核燃料サイクル問題について、とにかく福島の現地を見てこようというわけで、帰宅困難地域に指定され立ち入り禁止区域もある原発から35キロも離れた飯舘村に行ってきました。
 爆発した原発から放出された高濃度の放射能を含むプルームが3月15日の夕方から夜にかけて飯舘村のほぼ全域に雨となって降ったという。政府も福島県はスピーディーでそのことの危険性を知っていたにも関わらず、村にも住民にも知らせず、20キロ圏内の双葉郡の住民の避難受け入れまで協力させたのです。実際に、政府が汚染地域に住む住民に日ない要請をしたのは、4月下旬とのことでした。つまり、何も知らされないまま、飯舘村の住民は1カ月以上も高濃度の空間線量のなかで生活していたことになります。事故起こして村民から全てを奪った東電の犯罪はいまだ罰せられることなく、政府は哀しいまで村民を愚弄しつづけ、生体実験のモルモットとして冷たくあしらっているのでした。村外の仮設住宅(なかに入って話をきいてきましたが、とても人間らしい生活などできないことがよくわかりました)に住み、ときどき自宅の整理に戻るだけの村民に帰宅できるかという未来に対する希望はなく、絶望と悲観だけが日々募っていることがよくわかりました。放射能の悲劇は、村民に新しいふるさとを見つけてあげなければならないのに、その努力を政府も、東電もどちらも責任放棄している現実を目の当たりにしました。儲かっているのは、無駄な除染だとはっきりわかっているのに、あちこちで除染のモデル事業として農地や耕地の掘り返しを行っている大手ゼネコンとその下請けの建設業者だけなのでした。
 わたしはこれからはしばらく、わたしでなければ書けない小説の執筆作業と核燃サイクルや原発に関する調査研究を並行しながら、命の限りやっていきたいと思います。広島・長崎の悲劇が、いままさに私が見てきた飯舘村浪江町のゴーストタウンに代表される原発爆発の放射能汚染の悲劇となって現出されているのでした。