今日の論語一日一章「二三子、以我爲陰乎。吾爲陰乎爾。」

 今日は7月29日、月曜日です。8月3日から原水禁広島大会へ行ってきます。3日は岡山へ前泊し、岡山大学の大学院へ留学中の教え子の呂謙君にあってきます。広島へ2泊し、原爆慰霊祭へ参加し、その夜、大阪へ出て、大学時代の同期会をやり、7日の飛行機で伊丹から帰ります。今日は棟方さんが、校正作業の目の疲労回復にとブルーベリーを持ってきてくれました。
 ありがたいものです。東奥柳壇に2句投句もしました。

 今日の論語一日一章は、第7篇「述而第七」の第23章「二三子、以我爲陰乎。吾爲陰乎爾。」(二三子、我を以て隠せりとなすか。吾爾に隠すことなし。)です。
 この章の原文はこうです。
 「子曰、二三子、以我爲隠乎。吾爲隠乎爾。吾無行而不興二三子者。是丘也。」
 これの読み下し文です。
 「子曰はく、二三子、我を以て隠せりとなすか。吾爾に隠すことなし。吾行ふとして二三子に与(しめ)さざる者なし。是丘なり。」
 中国語簡体表記でこうなります。
 「子曰,二三子,以我为隐乎。吾为隐乎尔。吾无行而不兴二三子者。是丘也。
  Zǐ yuē, èrsānzi, yǐ wǒ wèi yǐn hu. Wú wèi yǐn hu ěr. Wú wú xíng ér bù xīng èrsānzi zhě. Shì qiū yě。」
 この章の日本語訳はこうです。
 「孔子が曰はれた。諸君はわしが隠していて残らず教えないと思っているのか。わしは諸君に何も隠してはいない。わしの日々のあらゆる動作は一つとして諸君に示すのでないものはない。これが孔丘の孔丘たるところである、と。」
 語句・語彙の解説はこうなります。
 二三子;諸弟子をさしています。
 行ふ;一身の動諍語黙等のことをいいます。
 与(しめ)す;示す、のことです。
 この章は、諸弟子が、孔子の道が高尚で、容易に悟ることができないので、孔子が隠していて教えないのではないかと疑ったから、これを暁(さと)したものです。
 呂大臨の説によれば、聖人は道と一体になっていて、少しも隠す所はない。天に日月の明らかなるがごとくである、みな至極の教えでないものはなく、常に人に示しているけれども人が自ら察しないのである、ということです。