今日の論語一日一章「伯夷叔斉、何人也」

 今日は早いものでもう7月20日となりました。63歳最後の一日です。感慨深い日となりました。

 今日の論語一日一章は、第7篇「述而第七」の第14章「伯夷叔斉、何人也」(伯夷叔斉は何人や)です。
 これの原文はこうです。
 「冉有曰、夫子爲衛君乎。子貢曰、諾、吾將問之。入曰、伯夷叔斎、何人也。曰、古賢人也。曰、怨乎、曰、求仁而得仁。又何怨。出曰、夫子不為也。」
 また、読み下し文はこうなります。
 「冉有曰はく、『夫子衛の君を為(たす)くるか。』子貢曰はく、『諾、吾将に之を問はんとす。』入りて曰はく、『白夷叔斉は何人ぞや。』曰はく、『古の賢人なり。』曰はく、『怨みたりや。』曰はく、『仁を求めて仁を得たり。又何ぞ怨みん。』出でて曰はく、『夫子は爲けじ。』と。」
 さらに、中国語簡体表記ではこうです。
 「冉有曰,夫子为卫君乎。子贡曰,诺,吾将问之。入曰,伯夷叔斉、何人也,何人也。曰,古之贤人也。曰,怨乎,曰求仁而得仁。又何怨。出曰,夫子不为也。
  Rǎn yǒu yuē, fūzǐ wèi wèi jūn hu. Zi gòng yuē, nuò, wú
jiāng wèn zhī. Rù yuē, bóyí shū qi, hérén yě. Yuē, gǔ zhi xian rén yě. Yuē, yuàn hu, yuē, qiú rén ér dé rén. Yòu hé yuàn. Chū yuē, fūzǐ bù wéi yě。」
 そして、日本語訳はこうなります。
 「冉有が子貢に、『先生(孔子)は現在の衛の君(出公)をお助けになりましょうか。』と曰ったので、子貢は、『さよう、私がお聞きしてみましょう。』と曰って、孔子の室に入って孔子に面会した。子貢が『伯夷叔斉はいかなる人物でございましょうか。』と曰うと、孔子は『古の賢人である。』と曰はれた。伯夷と叔斉の二人は、孤竹という所の君の子である。父が遺言して弟の叔斉を立てることにしたが、父の死後叔斉は兄の伯夷に譲った。伯夷は父の命であるといって遂に逃れ去った。叔斉もまた立たないで国を去ったから、国人は中の子を立てた。この二人は後に周の武王が君の殷の紂王を討つのを諌め、周の天下になってからは、周の粟を食うことを恥じて、首陽山に隠れて餓死したのである。子貢は衛君父子の国を争うのと伯夷叔斉の国を譲るのと全く相反しているから、伯夷叔斉のことを問うて孔子の意中を知ろうとし、孔子は伯夷叔斉の兄は父の命を重んじ、弟は兄を重んじて共に国を逃れた行いを賢人であると評したのである。子貢は更に『二人は国を譲って後、心に怨み悔ゆることはありますまいか。』と問う。孔子は『二人は国を譲って仁を行おうと求めて仁を行い得たのである。又何で怨み悔ゆることがあろう。』と答える。子貢はもし伯夷叔斉が国を譲った後、心に怨み悔ゆることがあるならば、衛の君輒(ちょう)が父を拒(ふせ)ぐのもなお恕すべき所があると思ったけれども、孔子が前には伯夷叔斉を賢人であるといい、後には怨み悔いていないと曰はれたので、孔子の意中を悟って、孔子の室から退出して、冉有に向かって『先生は衛の君をお助けになりますまい。』と曰った。」
 ここで、この章の語句・語彙はこうです。
 為(たす)くる;助ける。輒の立つことに賛成するので、蒯聵を拒(ふせ)ぐの意味ではありません。
 諾;返事の辞です。
 入りて;孔子の部屋に入ることです。
 怨む;うらみ悔ゆることです。
 仁;国を譲ることをさしています。
 出づ;ここでは、孔子の部屋から出ることです。
 この章は、孔子の古の人物を論ずるのを見て、子貢が、衛の君父子の相争う際に、孔子のいかに身を処するかを知ったことを述べたものです。
 衛の君は出公輒という人です。これより先に、衛の霊公という君が、その世子(よつぎ)の蒯聵(かいかい)を追いだしたので、霊公の薨去した後、国人は蒯聵の子の輒を立てて衛の君としたのでした。これが出公輒です。時に晋の国では、蒯聵を納(い)れて衛の君としようとしたから、輒はこれを拒(ふせ)いで国へ入れまい父子相争うことになったのです。当時、孔子は衛に居て、衛の人は蒯聵は父霊公から罪せられた人であるし、輒は霊公の嫡孫であることから、輒が君になるのが当然だと考えていたので、冉有孔子がいかに考えられるかを疑って、子貢に問うたのです。
 朱子の説によれば、「君子はそのいる国の大夫さえも非(そし)らないから、ましてその君を非るようなことはしない。故に子貢は直接に衛の君のことを問わないで、伯夷叔斉のことを問うたのである」としています。