1月11日は成人式です

  今日は仙台へ行ってきました。午前11時から午後3時まで勉強会がありました。半年ぶりに友人たちにあえてうれしかったです。次の勉強会は3月に決まりました。
 夜は910で文ノ楽の新年会でした。5時からの宴に1時間遅れて参加しました。7時15分過ぎまで、約1時間の会合でしたが、壬生さん、梶浦さんが元気そうなのがよかったと思いました。温、良、恭、儉、譲を飲み込んで、古川から徒歩で家まで帰りました。
 
 今日の、子規歳時は、
 
 口紅は四十の顔も松の内 (1983年、明治26年1月11日)
 
 子規は、小さい時分、ヘボで弱ミソ(泣き虫の愛媛の方言)であったという。松山で初めて能楽があったとき、鼓や太鼓の音に恐れて帰ってしまい、祖父の大原韓山に武士の家に生まれて何事ぞとしかられたことがある、子規の母堂が語っていたということです。
 
 今日の魯迅箴言再読は、
 
26 人们灭亡于英雄的特别的悲剧者少,消磨于级平常的,或者简直近于没有事情的悲剧者却多。
Rénmen mièwáng yú yīngxióng de tèbié de bēijù zhě shǎo, xiāomó yú jí píngcháng de, huòzhě jiǎnzhí jìn yú méiyǒu shìqíng de bēijù zhě què duō.
(人々は、英雄のような特別の悲劇に身を滅ぼす者は少なく、きわめて日常的か、さもなくば何事もなかったかのようにみえる悲劇に、身を消耗させる者のほうが多い。)
 
27 人们因为社交的要求,聚在一处,又因为各有可厌的许多性质和难堪的缺陷,再使他们分离。他们最后所发见的距离,----使他们得以聚在一处的中庸的距离,就是礼让上流的风习
Rénmen yīnwèi shèjiāo de yāoqiú, jù zài yī chù, yòu yīnwèi gè yǒu kě yàn de xǔduō xìngzhì hé nánkān dì quēxiàn, zài shǐ tāmen fēnlí. Tāmen zuìhòu suǒ fā jiàn de jùlí,----shǐ tāmen déyǐ jù zài yī chǔ de zhōngyōng de jùlí, jiùshì `lǐràng'hé `shàngliú de fēng xí'.
 (人々は社交の必要から集うものの、それぞれがもつ厭うべき多くの気質や耐えがたい欠陥が、再び彼らを引き離す。彼らが最後に発見した距離――ひとつ場所に集わせる中庸の距離、それが「礼節」と「上流社会の作法」である。)
 
28 有谁从小康人家而坠入困顿的么,我以为在这途路中,大概可以看见世人的真面目。
Yǒu shuí cóng xiǎokāng rénjiā ér zhuì rù kùndùn de me, wǒ yǐwéi zài zhè tú lù zhōng, dàgài kěyǐ kànjiàn shìrén de zhēnmiànmù.
(穏やかな暮らしから困窮へ堕ちた者なら、たいがい、その過程で世間の人の真面目を見るだろうと、私は思う。)
 
29 感激,那不待言,无论从那一方面说起来,大概总算是美德罢。但我总觉得这是束缚人的。因为感激别人,就不能不慰安别人,也往往牺牲了自己,――至少是一部分。
Gǎnjī, nà bùdài yán, wúlùn cóng nà yī fāngmiàn shuō qǐlái, dàgài zǒngsuàn shì měidé bà. Dàn wǒ zǒng juédé zhè shì shùfù rén de.…Yīnwèi gǎnjī biérén, jiù bùnéng bù wèi'ān biérén, yě wǎngwǎng xīshēngle zìjǐ,――zhìshǎo shì yībùfèn.
(感激は、言うまでもなく、どこからみてもたいがいは美徳とされる。だが、これは人間を縛りつけるものではないだろうか。…他人に感激したために、その人をいたわらざるを得なくなり、同時に、しばしば自分を犠牲にすることになる、――少なくとも、その一部分を。)
 
30 我的确时时解剖别人,然而更多的是更无情面地解剖我自己。
Wǒ díquè shíshí jiěpōu biérén, rán'ér gèng duō de shì gèng wú qíng miàn de jiěpōu wǒ zìjǐ.
(私はたしかに、いつも他人を解剖しているが、しかしそれより多く、さらに容赦なく私自身を解剖している。)