2月19日、木曜日です。

 2月19日、木曜日の朝を迎えました。どんよりと曇った静かな朝です。2月も今日を入れてあと10日となりました。本当に月日の経つのは、早いものです。光陰矢のごとしとはよくいったものです。

 さて、今日の子規歳時は、

 鶯の奥に家あり梅の花 (1892年、明治25年2月9日)
 
 

 子規は、小説「月の都」の批評を求めて何度も谷中の幸田露伴を訪ねたようです。露伴の言を聞いて子規は悟るところがあり、「小説家の骨を得たり」と書いていますが、この作品は2年後になって初めて「小日本」に発表されています。

 今日の論語は、公冶長第五 21節から25節までです。
 


5-21 子曰,武子,邦有道则知,邦无道则愚,其知可及也,其愚不可及也,
(子曰わく、寗武子、邦に道あれば則ち知、邦に道なければ則ち愚。其の知は及ぶべきなり、其の愚は及ぶべからざるなり。)
 解説;寗武子(衛の大夫で、名を愈という)は、君は明らかに臣は良く国家無事の時に仕うべき時を見て仕える知者である。外国から攻められ国内は乱れているような時には利口な人は退いて身の安全をはかるのに、寗武子は世の乱れを避けずに、心を竭くし力を尽くして君を済い身を全うする。そのやり方はまるで己の利害を知らぬ愚人である。その知者である所は誰にも出来るけれども、愚人である所は誰にもまねができない。武子が衛に仕えたのは、文公、成公の時代で、文公は有道の君であったけれども、成公は無道の君で、遂に国を失うに至ったという。


5-22 子在陈曰,归与归与,吾党之小子狂简,菲然成章,不知所以裁之也,
(子、陳に在して曰わく、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡、斐然として章を成す。これを裁する所以を知らざるなり。)
 解説;孔子は明君を得て道を行おうとして四方を周遊したけれども、陳におられたとき、道の遂に行われないことを知って嘆息して曰われるには、「帰ろう、帰ろう、魯に居る吾が門人たちは志は大きくて小事に拘わらず、美しい錦のように色彩や模様の観るべきものがあるが、これを裁って衣にすることを知らない。彼らは道に進むべき素質はあるが、これを裁って正しくととのえることを知らないから、帰ってこれを教育して中正の道に合するようにさせようとしたのです。


5-23 子曰,伯夷叔齐,不念旧恶,怨是用希,
(子曰わく、伯夷・叔斉、旧悪を念わず。怨み是(ここ)を用(もっ)て希(まれ)なり。
 解説;伯夷と叔斉は人を容れる度量のあることをのべている。伯夷と叔斉はともに孤竹という処の君の二人の子である。孟子にこの二人は悪人の朝廷に立たず、悪人と話をせず、郷人と立つとき、その人の冠が正しくなければ、己の身が浼されでもするかのように後も顧みずに去ってしまうといっている。孔子はこのように潔癖な人にもこのような人を容れる度量のあることを知って、これを述べたのである。程子が謂うには、「旧悪を念わないのが、伯夷叔斉のような潔癖な人の度量であるが、この二人の心は孔子でなければわかるまい。}


5-24 子曰,孰谓微生高直,或乞醋焉,乞诸其鄰而与之,
(子曰わく、孰れか微生高を直なりと謂う。或るひと醯(す)を乞う。諸れを其の鄰に乞いてこれを与う。)
 解説;微生(姓)高(名)は魯の人で直だといわれている人。しかし、微生高は、かつて女子と橋の下で逢う約束をしたが、女子が来ないうちに大水がでたけれども、そこを去らないで、橋の柱を抱いて死んだ尾生だといわれています。


5-25 子曰,巧言令色足恭,左丘明耻之,丘亦耻之,匿怨而友其人,左丘明耻之,丘亦耻之,
(子曰わく、巧言、令色、足恭なるは、左丘明これを恥じず、丘も亦たこれを恥ず。怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明これを恥ず、丘も亦たこれを恥ず。)
 解説;人が心を立てるのには直を尊ぶことを示したもの。巧言令色足恭を恥じるのは邪媚を恥じるのである。怨みを匿してその人を友とすることを恥じるのは心の奸悪を恥じるのです。

 今日の魯迅箴言は、箴言61から箴言70までです。

61 中国人的性情是总喜欢调和,折中的。譬如你说,这屋子太暗,须在这里开一个窗,大家一定不允许的。但如果你主张拆掉屋顶,他们就会来调和,愿意开窗了。(中国人の気質は、例外なしに妥協と折衷を好みます。もしあなたが、この部屋はとても暗いから窓を作ろう、と言ったとしても、だれもそれを許さないだろう。だが、いっそ屋根をぶち壊そうと言い張ったなら、彼らはすぐに妥協して、窓を作る気になることでしょう。
62 群众,――尤其是中国的,――永远是戏剧的看客。 (群衆、――とくに中国の群衆は、――永遠に芝居の見物客なのです。
63 中国的人们,遇见带有会使自己不安的朕兆的人物,向来就用两样法;将他压下去,或者将他捧起来。(中国の人々は、自分を不安にさせる兆しのある人物に出会うと、これまで二つの方法を用いてきた。相手を抑えつけるか、ないしは相手を祭り上げるか。
64 中国人向来有点自大。――只可惜没有个人的自大,都是合群的爱国的自大(中国人には、昔から尊大なところがある。――ただ惜しむらくは、そこに「個人の尊大」ではなく、すべて「集団的・愛国的な尊大」なのだ。
65 中国一向就少失败的英雄,少有韧性的反抗,少有敢单身鏖战的武人,少有敢扶哭叛徒的吊客;见胜兆则纷纷聚集,见败则纷纷逃亡。(中国には一貫して、失敗した英雄が少なく、強靭な反抗が少なく、あえて単身で斬り込む武人が少なく、反逆者を哭いて悼む弔問者が少なかった。勝ちそうだと見れば、われ先に集まるが、負けそうだと見れば、散り散りに逃げていく。
67 我每看运动会时,常常这样想,优胜者固然可敬,但那虽然落后而仍非跑至终点不止的竞技者,和见了这样竞技者而肃然不笑的看客,乃正是中国将来的脊梁。(運動会を見るたびに、いつも考える。勝者はもとより敬うべきだが、遅れても絶対にゴールまで駆け抜けようとする選手と、その選手を見ながら粛然として笑わない観客、彼らこそまさに中国の将来の脊梁(せぼね)である。


68 历史上都写着中国的灵魂,指示着将来的命远,只因为涂饰太厚,废话太多,所以很不容易察出底细来。正如通过密叶投射在莓苔上面的月光,只看见点点的碎影。但如看野史和杂记,可更容易了然了,因为他们究竟不必太摆史官的架子。(歴史書には中国の魂が記してあり、将来の運命を指し示しているが、ただ分厚い装飾や無駄な話が多すぎるため、真相が見えづらい。まるで茂みを通して苔の地面に差し込む月光のように、砕け散った明かりが点々と見えるだけである。ところが民間の史書や雑記を読むと、かえってわかりやすい。というのも、その書き手たちは結局、さほど士官ぶって書く必要はなかったからだ。
69 任凭你爱排场的学者们怎样铺装,修史时候设些什么汉族发祥时代」「汉族发达时代 汉族中兴时代的好题目,好意诚然是可感的,但措辞太绕湾子了。有更其直捷了当的说法在这里―― 一、想做奴隶而不得的时代;二、暂时做稳了奴隶的时代。見栄っ張りの学者たちは、いかにもったいぶろうかと、歴史編纂にあたって、「漢族発祥の時代」「漢族発達の時代」「漢族中興の時代」などと、ご立派な題目を並べたてる。好意はありがたいが、言葉づかいがあまりにも回りくどい。ここにずばり、的をつく言い方がある―― 一、奴隷になりたくともなれなかった時代、二、しばらくは奴隷に安んじられた時代。
70 要进步或不退步,总须时时自出新裁,至少也必取材异域,倘若各种顾忌,各种小心,各种唠叨,这么做即违了祖宗,那么做又像了夷狄,终生惴惴如在薄冰上,发抖尚且来不及,怎么会做出好东西来。(進歩するか、あるいは退歩しないためには、常にみずから新たな機軸を見出し、少なくとも外国から素材(しげき)を取り入れるべきだ。もし、あれこれと気兼ねしたり、不安がったり、くどくどと「こうしたら祖先に背くことになる」「ああしたら蛮族同然だ」などと言い、一生涯、薄氷の上でびくつき震えが止まらず、ゆとりもないようなら、どうして良いものなどつくり出せよう。
71 我以为国民倘没有,没有勇,而单靠一种所谓实在是非常危险的。 国民が、もし智恵もなく、勇気もなく、一種のいわゆる「気(いかり)」にのみ頼るならば、それはあまりに危険すぎる。