今日は4月20日、朝から氷雨です

 今日は4月20日、月曜日です。今朝は雨でしたので、珈琲を魔法瓶に入れ、おにぎり2個をビニル袋のつめ、自転車の前荷台に置き、ビニルの雨合羽を頭から被り、ショルダーバックを肩から斜めに提げ、自転車で新町の事務所へ向かいました。
 家をでるとすぐメガネに雨の水滴がついてくもりはじめました。左衛門橋から神社庁の脇を抜け、久須志4丁目から浪道へ出て、桜の花が雨に濡れてかわいそうな古中の校庭を横目に見て、踏切を越えてすぐ右にそれ、古川市民センター横を曲がって旭町通りに出ました。ズボンの前足の膝上が濡れてきます。
 旭町通りから、市役所裏に通ずる一方通行の道を通って、夜店通りを左折し、国道を横切り、夜店通りをまっすぐ新町のアーケードを2丁目のカネモトビルまで急ぎました。
 家を出てから16分ほどで、事務所へ着くことが出来ました。今日は、4時40分まで事務所へいて、5時から南大門で行われる日中友好協会のふれあい教室の打合せ会へ出席します。

 今日の子規歳時は、
 紫の夕山つゝじ家もなし (1894年、明治27年4月20日)
 「痛の烈しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は黙ってこらえて居るかする。其の中で黙ってこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。」(墨汁一滴)

 今日の魯迅箴言は、箴言47です。
 我们的知识很有限,谁都愿意听听名人的指点,但这时就来了一个问题,听博识家的活好,还是听专门家的活好呢? 解答似乎很容易,都好。自然都好,但我由厉听了两家的种种指点以后,却觉得必须有相当的警戒。因为是,博识家的活多浅,专门家的活多悖的。

 Wǒmen de zhīshì hěn yǒuxiàn, shuí dōu yuànyì tīng tīng míngrénde zhǐdiǎn, dàn

 zhè shí jiù láile yīgè wèntí; tīng bóshì jiā de huó hǎo, háishìtīng zhuānmén jiā de

 huó  hǎo ne? Jiědá sìhū hěn róngyì; dōu hǎo. Zìrán dōu hǎo;dàn wǒ yóu lì tīngle

 liǎng jiā de zhǒngzhǒng zhǐdiǎn yǐhòu, què juédé bìxū yǒuxiāngdāng de jǐngjiè.

 Yīn wéi shì; bóshì jiā de huó duō qiǎn, zhuānmén jiā dehuó duō bèi de.

(我々の知識には限りがあるから、誰しも名の知れた人の教えに耳を傾ける。しかしここに、ひとつの問題が生じる――博識家と専門家、どちらの話を聞くのがよいのか? 答えは簡単そうにみえる――どちらもよい。むろんどちらもよいのだが、私は双方からいくつかの教えを聞いた経験から、それ相応の心構えが必要だと思う。なぜなら、博識家の話は底の浅いことが多く、専門家の話は独りよがりが多いからだ。)