5月20日、水曜日(中庸の徳)

 今日は、昨日とうって変わって朝から好天に恵まれています。先日の橋下大阪市長の政治家引退について考えました。私には4人の子がいて、それぞれ独立、自立しています。魯迅ではありませんが、彼らに教育的義務を尽くし、自立する能力を与えたと思っています。ですから、私にして私でない彼らを同時に解放して、すべてを彼ら自身にまかせ、独立させようと思います。4人の別の私が、それぞれ存在し、それぞれ生きて居るのですから、こんなに素晴らしいことはありません。私も7月で66歳です。そろそろ隠居して、彼らがこれからどんなふうにして生きていくのか、はらはらどきどきしながら、見守ってやるのもいいのかも知れません。

 今日の子規歳時は、
 古道の岡に登るところ茨白し (1897年、明治30年5月20日)
 明治30年5月20日、子規庵で万葉集論講を開いていましたが、夜に入って雨になり、左千夫、格堂ら数名が一泊しました。子規は翌日払暁、庭を眺めて立ちどころに雨中即景十二首を作ったのでした。

 今日の魯迅箴言は、箴言77です。
 子女是即我非我的人,
  但斯己分立,也便是人类中的人。
  因为即我,所以更应该尽教育的义务,交给他们自立的能力;
  因为非我,所以也应同时解放,全部为他们自己所有,成一个独立的人。
 Zǐnǚ shì jí wǒ fēi wǒ de rén,
 dàn sī jǐ fēnlì, yě biàn shì rénlèi zhōng de rén.
 Yīnwèi jí wǒ, suǒyǐ gèng yīnggāi jǐn jiàoyù de yìwù, jiāo gěi tāmen zìlì de
 nénglì;  yīn wéi fēi wǒ, suǒyǐ yě yīng tóngshí jiěfàng, quánbù wèi tāmen zìjǐ  suǒyǒu, chéng yīgè dúlì de rén.
「わが子とは、私にして私ではない人間であり、しかしすでに分かれて存在する以上、人類の中の一人でもある。私であるからには、教育的義務を尽くして、彼らに自立する能力を与えねばならない。私でないからには、同時に解放して、すべてを彼ら自身にまかせ、一人の独立した人間にしてやらねばならない。」
 わが子とは私にして私ではない人間;子女是即我非我的人(Zǐnǚ shì jí wǒ fēi wǒ de rén
 
  今日の論語は、論語6-29(論語巻第三 雍也第六篇 29章)です。
 子曰、中庸之爲徳也、其至矣乎、民鮮久矣、
 Zǐ yuē, zhōngyōng zhī wèi déyě, qí zhì yǐ hū, mín xiān jiǔ yǐ,
「子曰わく、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。」(中庸の道徳としての価値は、いかにも最上だね。だが、人民のあいだにとぼしくなってから久しいことだ。)(子曰,中庸之为德也,其至矣乎,民鲜久矣)
  このように孔子は、中庸の道徳としての価値が最上だと語っています。しかし、人民大衆にその中庸の徳が乏しいことを紀元前500年の頃に嘆いてもいるのです。