6月4日、木曜日です

 今日も一日、宗教史の校正に集中します。頭がくらくらします。

 今日の子規歳時は、
 河骨の花起き直るさでのあと (1898年、明治31年6月4日)
 神戸病院で一時危篤に陥った子規は、その後も重体をつづけ、6月4日(明治28年)母堂は碧梧桐とともに東京から駆けつけたのでした。しかし、その後は日を追うて快方に向かったのです。

 今日の魯迅箴言は、箴言92です。
 我也曾有如现在的青年一样,
 向已死和未死的导师们问过应走的路。
 他们都说;不可向东,或西,或南,或北。
 但不说应该向东,或西,或南,或北。
 我终于发见他们心底里的蕴蓄了;
 不过是一个「不走」而已。
 Wǒ yě céng yǒurú xiànzài de qīngnián yīyàng,
 xiàng yǐ sǐ hé wèi sǐ de dǎoshīmen wènguò yīng zǒu de lù.
 Tāmen dōu shuō; bùkě xiàng dōng, huò xī, huò nán, huò běi.
 Dàn bù shuō yīnggāi xiàng dōng, huò xī, huò nán, huò běi.
 Wǒ zhōngyú fā jiàn tāmen xīndǐ lǐ de wēn xùle;
 bùguò shì yīgè `bù zǒu'éryǐ。
「私もかつては、今の青年たちと同様に、すでに亡くなった、あるいはまだ亡くなってはいない指導者たちに、歩むべき道を訊ねたものだった。彼らは、みなこう言った。東、あるいは西、あるいは南、あるいは北に向かってはならない、と。しかし、東、あるいは西、あるいは南、あるいは北に向かうべきだ、とも言わなかった。私はようやく、彼らの胸の底にある蘊蓄を発見した。それはただ、「行くな」ということだった。」
 指導者;导师 dongshi 東西南北;东西南北 dongxinanbei 蘊蓄;蕴蓄 wenxu

 今日の論語は、論語7-14(巻第四 述而第七篇 14章)です。
 冉有曰、夫子爲衛君乎、子貢曰、諾、吾將問之、人曰、伯夷叔齊何人也、子曰、古之賢人也、曰怨乎、曰、求仁而得仁、又何怨乎、出曰、夫子不爲也、
 Rǎn yǒu yuē, fūzǐ wèi wèi jūn hū, zi gòng yuē, nuò, wú jiāng wèn zhī, rén yuē, bóyí shū qí hérén yě, zǐ yuē, gǔ zhī xiánrén yě, yuē yuàn hū, yuē, qiú rén ér dé rén, yòu hé yuàn hū, chū yuē, fūzǐ bù wèi yě,
冉有が曰わく、夫子は衛の君を為けんか。子貢が曰わく、諾、吾れ將にこれを問わんとす。入りて曰わく、伯夷・叔斉は何人ぞや。曰わく、古えの賢人なり。曰く、怨みたるか。曰わく、仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん。出でて曰わく、夫子は為(たす)けじ。」(冉有が、「孔子先生は、衛の殿様を助けられるだろうか。」といったので、子貢は「よし、わたしがおたずねしてみよう。」といって、先生の部屋へ入っていってたずねた。「伯夷と叔斉とはとはどういう人物ですか。」孔子、「昔のすぐれた人だ。」「君主の位につかなかったことを後悔したでしょうか。」「仁を求めて仁を得たのだから、また何を後悔しよう。」子貢は退席すると、「孔子先生は、助けられないだろう。」といった。)(冉有曰,夫子为卫君乎,子贡曰,诺,人曰,伯夷叔齐何人也,子曰,古之贤人也,日怨乎,曰,求仁而得仁,又何怨乎,出曰,夫子不为也,)