もう6月5日になってしまいました。1日、家に籠っていても、なかなか仕事が前に進みません。あすは、「鷗外の後北游日乗にみる青森」の原稿作り、川柳の宿題の句作です。終われば、日本宗教史の校正作業です。
今日の子規歳時は、
露あかしいちこ畑の山かづら (1895年、明治28年6月5日)
纵令不过一洼浅水,也可以学学大海;
横竖都是水,可以相通。
Zònglìng bùguò yī wā qiǎnshuǐ, yě kěyǐ xué xué dàhǎi;
héngshù dōu shì shuǐ, kěyǐ xiāngtōng。
「たとえ浅い水たまりにすぎずとも、大海を学ぶことはできる。いずれにせよ、どちらも水だから、あい通じるはずだ。」
たとえ;纵令 zongling 浅い水たまり;一洼浅水 yiwaqianshu 大海;大海 dahai
いずれにせよ;横竖 henshu 相通じる;相通 xiangtong
子曰、飯疏食飲水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲、
Zǐ yuē, fàn shū shí yǐnshuǐ, qū gōng ér zhěn zhī, lè yì zài qízhōng yǐ,
bùyì ér fù qiě guì, yú wǒ rú fúyún,
「子曰わく、疏食を飯(くら)い水を飲み、肱を曲げてこを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我れに於いて浮雲の如し。」(孔子がいわれた。「粗末な飯をたべて水を飲み、うでをまげてそれを枕にする。楽しみはやはりそこにもあるものだ。道ならぬことで金持ちになり身分が高くなるのは、わたくしにとっては浮き雲のように、実のない無縁なものだ。」と。)(子曰,饭疏食饮水,曲肱而枕之,乐亦在其中矣,不义而富且贵,於我如浮云,)