6月8日、新しい日々が始まります。

 6月8日、月曜日です。昨年、5月にはじまった選挙の日々が、漸く昨日で終わりました。3連敗でしたが悔いはありません。すべては自分の不明が原因です。しかし、いい経験と時代の流れを感じましたし、運命に逆らって自分を貫くことの難しさと無常さも実感しました。あとは、静かにあるがままに生きるのみです。まだまだやらなければならないこともありますし、勉強することの喜びもわかってきたつもりです。
 まず、18日までの10日間は、校正の仕事に集中しなければなりません。北狄の小説書きも終わり、川柳の作句もひと休みです。なにより、三度の選挙が終わったことが、私を覆っていた気持の錘をとりはらってくれました。すっきりさわやかとまではいきませんが、これから本当の意味での、私の新しい日々が始まります。

 今日の子規歳時は、
 歌書俳書紛然として昼寝かな (1896年、明治29年6月8日)
 「人より余計に働いて僅かの給金をもらう」を意としなかったという子規でも、せめて毎月二、三円の書物は買いたいともらしていたようです。死後に残された蔵書は二千三百六十有余冊にも達していました。

 今日の魯迅箴言は、箴言96です。
 孩子是要别人教的,
 毛病是要别人医的,
 即使自己是教员或医生。
 但做人处世的法子,却恐怕要自己斟酌,
 许多别人开来的良方,往往不过是废纸。
 Háizi shì yào biérén jiào de,
 máobìng shì yào biérén yī de,
 jíshǐ zìjǐ shì jiàoyuán huò yīshēng.
 Dàn zuòrén chǔshì de fǎzi, què kǒngpà yào zìjǐ zhēnzhuó,
 xǔduō biérén kāi lái de liáng fāng, wǎngwǎng bùguò shì fèi zhǐ。
「子どもには他人の教えが必要であり、病気には他人の治療が必要である。――たとえ、自分が教師や医者であってもである。しかし、人として世を渡ってゆくには、自分で思案し処置するしかないであろう。他人が示してくれるあれこれの処方箋は、往々にしてただの紙屑にすぎないのだ。」
 子ども;孩子 haizi 他人;别人 bieren 教え;教的 jiaode 治療;医的 yide 
  病気;毛病 maobing 教師;教师 jiaoshi 医者;医生 yisheng 処世;处世 chushi   
  斟酌;斟酌 zhenzhuo 処方箋;良方 liangfang 紙屑;废纸 feizhi。

 今日の論語は、論語7-18(論語巻第四 述而第七篇 18章)です。
 葉公問孔子子路子路不對、子曰、女奚不曰、其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至也云爾、
 Yè gōng wèn kǒngzǐ yú zilù, zilù bùduì, zǐ yuē, nǚ xī bù yuē, qí wèi rén yě, fāfèn wàng shí, lè yǐ wàng yōu, bùzhī lǎo zhī jiàng zhì yě yún ěr,
「葉公、孔子子路に問う。子路対(こた)えず。子曰わく、女奚(な)んぞ曰わざる、其の人と為りや、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの將に至らんとするを知らざるのみと。」(葉公が孔子のことを子路にたずねた。子路は答えなかった。孔子がいわれた。「お前はどうしていわなかったのだ。その人となりは、学問に発奮しては食事も忘れ、道を楽しんでは心配事も忘れ、やがて老いがやってくることにも気づかずにいる人だというふうに。」と。)