7月23日、体調はすこぶるいいです。

 7月23日、金曜日です。6時過ぎには目覚めていましたが、起きたのは7時半でした。8時半から1時間ほどかけて、家の周りを100軒ほど回り、戦争法案反対のチラシを配りました。小雨が降る中、自転車で町会を回りましたが、あまり人はいません。テレビを観ている人が何人もいましたが、直接挨拶を交わしたのは6人余りでした。帰ってから風呂に入り、体重を測ったら83.5㎏でした。体調はすこぶるいいのです。
 昨日は新町で9条の会のチラシ配りに参加した後、新町のGEAの事務所へ久しぶりで顔を出してみました。事務所のPCのキンドルで「倫敦塔」を再読し、脚注をメモしていたら、事務局長が高校野球の決勝戦を忘れていたと言って、テレビのスイッチを入れたのです。皆、光星の勝ちだろうと予測していましたが、意外にも5回を終わって1対0の僅差でした。追加点を許さない三沢商業がついに8回裏に同点に追いつき、そのまま延長戦に。こうなれば、裏攻撃の三沢商が有利で、12回裏、光星にとってはよもやの2アウト1塁・3塁の場面で、中川投手の投げたスライダーを3番バッターのキャプテンに振り逃げされ、パスボールとなり、サヨナラ負けの劇的な幕切れとなりました。歓喜する三沢商ナインの脇でホームベースにへたりこんで泣き崩れる中川投手の姿が印象的でした。遠く関西からやってきて常勝をほしいままにしてきたチームの選手たちへ果敢に戦いをいどんだ三沢周辺の地域の球児たちの誇らしげな顔がなんとも爽やかなのでした。

 今日の子規歳時は、
 薫風や裸の上に松の影 (1895年、明治28年7月23日)
 「高浜海水浴」の句です。梅津寺の開けぬ前は三津か高浜が海水浴場であったようです。「喀血始末」には、海岸へ行くと胸郭が開けるが、水浴は寒いから温浴をやるとあります。子規は海風に吹かれ足を海水に浸す程度だったようです。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言11(旧箴言49に同じ)です。
 名声的起灭,
 也如光的起灭一样,
 起的时候,
 从近到远,
 灭的时候,
 远处倒还留着余光。
 Míngshēng de qǐ miè, yě rú guāng de qǐ miè yīyàng, qǐ de shíhòu,
 cóng jìn dào yuǎn, miè de shíhòu, yuǎn chù dào hái liúzhe yú guāng.
「名声の興廃は、光のそれと同じで、興るときは、近くから遠くへとひろがり、廃れるときは、かえって遠くに余光を留めるものだ。」
 名声;名声 mingsheng 興廃;起灭 qimie 近く;近 jin 
  遠く;远 yuan 余光;余光 yuguang

 今日の論語一日一章は、論語9-5(論語巻第五 子罕第九篇 5章)です。
 子畏於匡、曰、文王既没、文不在茲乎、天之將喪斯文也、後死者不得與於斯文也、天之未斯文也、匡人其如予何、
 Zi wèi yú kuāng, yuē, wénwáng jì méi, wén bùzài zī hū,
 tiān zhī jiàng sàng sīwén yě, hòu sǐzhě bùdé yǔ yú sīwén yě,
 tiān zhī wèi sīwén yě, kuāngrén qí rú yǔ hé,
「子、匡に畏る。曰わく、文王既に没したれども、文茲に在らずや。天の將に斯の文を滅ぼさんとするや、後死の者、斯の文に与かることを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予れを如何。」
孔子が匡の土地で危険にあわれたときにいわれた、「文王はもはやなくなられたが、その文化はここに、このわが身につたわっているよ。天がこの文化を滅ぼそうとするなら、後代のわが身はこの文化にたずさわれないはずだ。天がこの文化を滅ぼさないからには、匡の連中ごときが、わが身をどうしようぞ。」と。)
(子畏於匡,文王既没,文不在兹乎,天之将丧斯文也,后死者不得与於斯文也,天之未斯文也,匡人其如予何,)
 この章は、孔子が衛の国から陳に向かう途中の匡という土地で危険な目に遭ったとき、天命を自覚して動じなかったことを記したものです。匡では、かつて魯の重臣の陽虎が暴れたことがあり、孔子は匡の人たちに陽虎に間違われたときのことです。文王とは周の王です。述而篇第七の22章にも、「天徳を予に生せり」として宋の桓魋が孔子を殺そうとしたときも、このように動じなかったとしています。天から德を賜った孔子は、天が自分を助けないはずはない、として心配する弟子たちを慰めたとあります。