7月25日、朝から雨です。自転車は車庫で眠っています。

 7月25日、雨が少し小やみになってきました。昨日は夕方までに原稿書きも終わり、4時半から千成へ行き、監督の遺影へ高校野球の報告をしました。近いうちに甲子園に行けるはずだと告げました。帰りに綺羅と鳥平に寄って家に戻りました。
 今日は浅虫温泉泊まりです。浅虫温泉は昨年6月の高校同期会以来です。昨年一年間を振り返りながら、ゆっくり汗を流してくるつもりです。

 今日の子規歳時は、
 薫風や大文字を吹く神の杜 (1897年、明治30年7月25日)
 立花の天神祭(井出神社)には、大文字といって、大字を清書してあげると手があがるというので、子規も少年のころ大字を書いて奉納しました。境内に縄を張りめぐらして大文字をつるし、さながら書道展の感があったようです。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言13です。
 极平常的,或者简直近于没有事情的悲剧,
 正如无声的言语一样,非由诗人画出它的形象来,
 是很不容易觉察的。
 然而人们灭亡于英雄的特别的悲剧者少,
 消磨于极平常的,
  或者简直近于没有事情的悲剧者却多。
 Jí píngcháng de, huòzhě jiǎnzhí jìn yú méiyǒu shìqíng de bēijù,
 zhèngrú wúshēng de yányǔ yīyàng, fēi yóu shīrén huà chū tā de xíngxiàng lái,
 shì hěn bù róngyì juéchá de.
 Rán'ér rénmen mièwáng yú yīngxióng de tèbié de bēijù zhě shǎo,
 Xiāomó yú jí píngcháng de,
  huòzhě jiǎnzhí jìn yú méiyǒu shìqíng de bēijù zhě què duō.
「きわめて日常的か、さもなくば何事もなかったようにみえる悲劇を見極めるのは、まさに言語に同じ音声がないように、詩人の描き出す形象とは違って、非常にむずかしいことだ。しかるに、人間は、英雄のように特別の悲劇に身を滅ぼすものは少なく、きわめて日常的か、さもなくば何事もなかったかのように見える悲劇に身を消耗させる者のほうが多い。」

 今日の論語一日一章は、論語9-7(論語巻第五 子罕第九篇 7章)です。
 牢曰、子云、吾不試、故藝、
 Láo yuē, zi yún, wú bù shì, gù yì,
「牢が曰わく、子云まう、吾試いられず、故に藝ありと。」
(牢がいった、「孔子は『わたしは世に用いられなかったので芸がある。』といわれた。」と。)
(牢曰,子云,吾不试,故艺,)