8月19日、水曜日です。今日は好い天気です。

 8月19日となりました。今日は水曜日、そろそろ小説の執筆を本格的に進めなければなりません。

 今日の子規歳時は、
 挨拶や夏の羽織もつくろはず (1899年、明治32年8月19日)
 明治25年の夏、当時中学生だった景浦稚桃氏らは、帰省中の子規に請うて松山高等小学校で十日間の文学講習会を開いたのです。子規が講師として教壇に立ったのは、一生でこの時だけだということです。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言39です。
 无论古今、
 凡是没有一定的理论、
 或主张的变化并无线索可导,
 而随时拿了各种各派的理论
 来作武器的人,
 都可以称之为流氓。
 Wúlùn gǔjīn,
 fánshì méiyǒu yīdìng de lǐlùn
 huò zhǔzhāng de biànhuà bìng wúxiàn suǒ kě dǎo,
 ér suíshí nále gè zhǒng gè pài de lǐlùn
 lái zuò wǔqì de rén,
 dōu kěyǐ chēng zhī wèi liúmáng.
「今であろうが昔であろうが、およそ思想や主張の変化で導びかれる手がかりのないものなど別にない。それゆえ、それぞれの種族や各派の思想を掌握することは、ごろつきと称される人たちにとっても武器となるのだ。」
 であろうとなかろうと;无论 wulun 理論;理论 lilun 主張;主张 zhuzhang 
  変化;变化 bianhua 別にない;并无 bingwu 手掛かり;线索 xiansuo 
  武器;武器 wuqi 称される;称为 chengwei ちんぴら、ごろつき;流氓 liumang

 今日の論語一日一章は、論語9-32(論語巻第五 子罕第九篇 32章)です。
 唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而、子曰、未之思也、夫何遠之有哉、
 Tángdìzhī huá, piān qí fǎn'ér, qǐ bù ěr sī, shì shì yuǎn ér, zǐ yuē,
 wèi zhī sī yě, fū hé yuǎn zhī yǒuzāi,
「唐棣(とうてい)の華、偏として其れ反せり、豈に爾を思わざらんや、室是れ遠ければなり。子曰わく、未だこれを思わざるなり。夫れ何の遠きことかこれ有らん。」
(『唐棣(にわざくら)の花、ひらひらかえる。お前恋しと思わぬでないが、家がそれ遠すぎて。』孔子がこの歌についていわれた、「思いつめていないのだ。まあ思いつめさえすれば、何の遠いことがあるものか。」と。)
(唐棣之花,偏其反而,岂不尔思,室是远而,子曰,未之思也,夫何远之有哉,)