今日9月23日、これから東京で反原発・反戦争法の集会に行ってきます。朝6時50分に家を出て、7時5分に空港へ着いたのに、飛行機は満席でキャンセル待ち、しかし7時35分の便も、つぎの10時5分の便にも乗れず、結局、家にそのまま戻りました。
東京行きを取りやめにし、女房・娘と一緒に、三人で秋彼岸の墓参りとなった。天気はまさに秋晴れでした。お盆のときのように霊園も混んではおらず、ゆっくりと落ち着いて墓参りができました。
今日の子規歳時は、
粟の穂のここを叩くなこの墓を (1895年、明治28年9月23日)
愚陀仏庵滞在中の秋の彼岸に、子規は法龍寺の夫君の墓に参り、「畑中の荒地と変わり果てたるにそぞろ涙を催し」たのでした。この句碑は豊坂町の子規庵(極堂居)に立っています。
任凭你爱排场的学者们怎样铺张,
修史时候设些什么
”汉族发祥时代”
”汉族发达时代”
”汉族中兴时代” 的好题目,
好意诚然是可感的,但措辞太绕湾子了。
有更其直捷了当的说法在这里――
一,想做奴隶而不得的时代;
二,暂时做稳了奴隶的时代。
Rènpíng nǐ ài páichǎng de xuézhěmen zěnyàng pūzhāng,
xiūshǐ shíhòu shè xiē shénme
” hànzú fāxiáng shídài”
” hànzú fādá shídài”
” hànzú zhōngxìng shídài” de hǎo tímù,
hǎoyì chéngrán shì kě gǎn de, dàn cuòcí tài rào wān zile.
Yǒu gèng qí zhí jiéliǎo dāng de shuōfǎ zài zhèlǐ--
yī, xiǎng zuò núlì ér bùdé de shídài;
èr, zhànshí zuò wěnle núlì de shídài.
「見栄っ張りの学者たちは、いかにもったいぶろうかと、歴史編纂にあたっては、『漢族発祥の時代』、『漢族発達の時代』、『漢族中興の時代』などと、ご立派なお題目を並べ立てるのだ。好意はありがたいのだが、言葉づかいがあまりに回りくどいのだ。ここにずばり、的を突く言い方がある、―― 一、奴隷になりたくともなれなかった時代、二、しばらくは奴隷に安んじられた時代。」
季路問事神、子曰、未能事人、焉能事鬼、曰敢問死、曰未知生、焉知死、
Jì lù wèn shì shén, zǐ yuē, wèi néng shì rén, yān néng shì guǐ,
yuē gǎn wèn sǐ, yuē wèizhī shēng, yān zhī sǐ,
(季路问事神,子曰,未能事人,焉能是鬼,曰敢问死,曰未知生,焉知死,)
「季路、鬼神に事えんことを問う。子曰わく、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死をしらん。」
(季路が神霊に仕えることをおたずねした。孔子はいわれた、「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられようか。」と。つぎに、「恐れ入りますが、死のことをおたずねします。」と問うと、「生もわからないのに、どうして死がわかろうか。」と。)