今日は10月31日、終末は家で勉強三昧

 今週は毎日、新町の事務所へ顔を出しました。何度も雨にあたりました。そして、今日31日も小雨が降っています。冷たい雨が降っています。こうして、いつしか雪が降り出すのでしょう。いまは、ふじの収穫のまっさかりです。友彦さん、鉄芳さん、一雄さんらが畑で合羽をかぶって作業している姿が目に浮かびます。さぞかし、手先がしびれるくらい寒いことでしょう。
 昨日の朝、県庁正面玄関前での街宣の合間に見た正面横の前庭に植えられたリンゴの樹のうち、なぜか「ふじ」の樹の実だけが異様に小さかったのが気になっています。
 さて、今日明日の週末はできることなら家に籠って、一心不乱に勉強することにします。食事以外には部屋を出ないことにしたいと思います。

 今日の子規歳時は、
 はりはりと木の実降る也檜木笠 (1892年、明治25年10月31日)
 新海非風が京都で死んだのは明治34年のことでした。非風の名は正行、松山の人で五百木飄亭とともに最も早く子規の俳句に帰依した人ですが、晩年は不遇であったようです。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言112です。
 夫近乎持中的态度大概有二;一者非彼即此
 二者可彼可此也。前者是无主意,不盲从,不附势,
 或者别有独特的见解;……后者则是骑墙
 或者极巧妙的随风倒了,然而在中国最得法,
 所以中国人的持中大概是这个。
 倘改篡了,旧对联来说明,就该是;
 似战,似和,似守;似死,似降,似走。

 Fū jìnhū “chí zhōng” de tàidù dàgài yǒu èr; yī zhě “fēi bǐ jícǐ”,

 èr zhě “kě bǐ kě cǐ” yě. Qiánzhě shì wú zhǔyì, bù mángcóng, bù fù shì,

 huòzhě bié yǒu dútè de jiànjiě;……hòu zhě zé shì “qíqiáng”,

 huòzhě jí qiǎomiàode “suí fēng dǎo”le, rán'ér zài zhōngguó zuì défǎ,

 suǒyǐ zhōngguó rén de “chízhōng” dàgài shì zhège.

 Tǎng gǎi cuànle, jiù duìlián lái shuōmíng, jiù gāishì;

 “shì zhàn, shì hé, shì shǒu; shì sǐ, shì jiàng, shì zǒu.”
「近頃では、『中間を保つ』という態度には大概二つのタイプがある。一つは、『あっちでもない、こっちでもない』というものと、もう一つは『あっちもこっちもいい』というものです。前者は、主人の意に、盲従するのでなく、加勢するのでもなく、別に独自の見解をもっているということです。後者の方は、すなわち、『二股をかける』ということで、きわめて巧妙に『風見鶏をする』ということで、これは中国では最もよくなされている方法です。もしも、古い連関を改ざんして説明するとこうなります。『戦いに似て、和睦に似て、守勢にも似る。死ぬに似て、降りるに似て、逃げるに似る。』」

 今日の論語一日一章は、論語12ー21(論語巻第六 顔淵第十二篇 21章)です。
 樊遲從遊於舞禹雩之下、曰、敢問崇徳脩慝瓣惑、子曰、善哉問、先事後得、非崇徳與、攻其惡無攻人之惡、非脩慝與、一朝之忿其身以及其親、非惑與、
 Fán chí cóng yóu yú wǔ yǔ yú zhī xià, yuē, gǎn wèn chóngdé xiū tè bàn huò,
 zǐ yuē, shànzāi wèn, xiān shìhòu dé, fēi chóngdé yǔ,
 gōng qí è wú gōng rén zhī è, fēi xiū tè yǔ, yī zhāo zhī fèn qí shēn yǐjí qí qīn,
 fēi huò yǔ,
(樊遲从游於舞禹雩之下,曰,敢问崇德脩慝辬惑,子曰,善哉问,先事后得,非崇德与,攻其恶无攻人之恶,非脩慝与,一朝之忿其身以及其亲,非惑与,)
「樊遅従いて舞雩の下に遊ぶ。曰わく、敢えて徳」を崇くして慝を脩め惑いを弁ぜんことを問う。子曰わく、善いかな、問うこと。事を先きにして得ることを後にするは、徳を崇くするに非ずや。其の悪を攻めて人の悪を攻むること無きは、慝を脩むるに非ずや。一朝の忿りに其の身を忘れて以て其の親に及ぼすは、惑いに非ずや。」
(樊遅がおともをして雨乞いに舞う台地のあたりで遊んだ時にいった、「恐れいりますが、徳をたかめ邪悪をのぞき迷いをはっきりさせることについておたずねいたします。」孔子はいわれた、「立派だね、その質問は。仕事を先にして利益は後まわしにするのが、徳をたかめることじゃなかろうか。自分の悪い点を責めて、他人の悪い点を責めないのが、邪悪を除くことじゃなかろうか。一時の怒りにわが身を忘れたうえ、近親まで巻き添えにするのは、迷いじゃなかろうか。」と。)