12月17日、東京12℃、青森0℃これだけ差がありました。

 朝、6時半東京。7時半羽田発、9時青森着。10時会議。11時昼食。12時会議。15時忘年会。17時大学研究室。18時学習会。19時役員会。19時半、懇親会。21時送迎。21時半帰宅。

 今日の子規歳時は、
 橋越えて淋しき道や冬木立 (1899年、明治32年12月17日)
 死の近きを自覚した子規は、明治28年12月のある日、虚子を道潅山に伴い、後継者の問題について打ち明けたのでした。しかし、虚子は重任は果たせないといって辞退しました。そのあと、子規は飄亭に長い手紙を書いています。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言159です。
 凡对于以真话为笑话的,以笑话为真话的,以笑话为i笑话的,只有一个方法;就是不说话。
 Fán duìyú yǐ zhēn huà wéi xiàohuà de, yǐ xiàohuà wéi zhēn huà de, yǐ xiàohuà wèi i xiàohuà de, zhǐyǒu yīgè fāngfǎ; jiùshì bù shuōhuà.
 「およそ、ほんとうの話を冗談とし、冗談をほんとうの話とし、冗談を冗談としてしまうには、ただひとつだけ方法がある。すなわち、物を言わないことだ。」

 今日の論語一日一章は、論語14-14(論語巻第七 憲問第十四篇 14章)です。
 子問公叔文子於公明賈、曰、信乎、夫子不言不笑不取乎、公明賈對曰、以告者過也、夫子時然後言、人不厭其言也、樂然後笑、人不厭其笑也、義然後取、人不厭其取也、子曰、其然、豈其然乎、
 Zi wèn gōng shū wénzi yú gōngmíng jiǎ, yuē, xìn hū, fūzǐ bù yán bù xiào bù qǔ hū, gōngmíng jiǎ duì yuē, yǐ gào zhěguò yě, fūzǐ shí ránhòu yán, rén bùyàn qí yán yě, lè ránhòu xiào, rén bùyàn qí xiào yě, yì ránhòu qǔ, rén bùyàn qí qǔ yě, zǐ yuē, qí rán, qǐ qí rán hū,
 (子问公叔文子於公明贾,曰,信乎,夫子不言不笑不取乎,公明贾对曰,以告者过也,夫子时然后言,人不厌其笑也,乐然后笑,人不厌其笑也,义然后取,人不厌其取也,子曰,其然,岂其然乎,)
 「子、公叔文子を公明賈に問いて曰わく、信なるか。夫子の言わず、笑わず、取らざること。公明賈対えて曰わく、以て告す者の過ちなり。夫子、時にして然る後に言う、人其の言うことを厭わざるなり。楽しみて然る後に笑う、人其の笑うことを厭わざるなり。義にして然る後に取る、人其の取ることを厭わざるなり。子曰わく、其れ然り。豈に其れ然らんや。」
 (孔子が公叔文子のことを公明賈におたずねになって、「本当ですか。あの方はものもいわず、笑いもせず、物を贈られても受け取らないというのは。」といわれた。公明賈は答えていった、「お知らせした者の間違いです。あの方はいうべき時がきてはじめていいますから、そのいったことをだれもいやがらないのです。楽しくなってはじめていいますから、そのいったことをだれもいやがらないのです。正義にかなってはじめて受け取りますから、その受け取ったことを誰もいやがらないのです。」孔子はいわれた、「そうでしょう。うわさのようなことはありますまい。」と。)
 ここで、公叔文子とは、衛の国の大夫です。公明賈も衛の国の人です。