12月25日、朝は県庁へ行き、夕方から忘年会が二つです

 今日は、12月25日、クリスマスの日です。雪になりそうです。

 今日の子規歳時は、
 行く年を母すこやかに我病めり (1896年、明治29年12月25日)
 明治30年来毎年開いていた蕪村忌も、34年には子規の病苦がつのったため、子規庵では開くことができなかったのでした。道潅山の胞衣神社で句会が開かれたました。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言167です。
 倘有谣言,自己就奥恼,那就中了造谣者的计了。
 Tǎng yǒu yáoyán, zìjǐ jiù àonǎo, nà jiù zhōngle zàoyáo zhě de jìle.
 「もしもデマを飛ばされたら、自分で悩んで、自分からデマを飛ばす人になってしまう。」

 今日の論語一日一章は、論語14-22(論語巻第七 憲問第十四篇 22章)です。
 陳成子弑簡公、孔子沐浴而朝、告於哀公、陳恒弑其君、請討之、公曰、告夫三子、孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也、君曰、告夫三子者、之三子告、不可、孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也、
 Chén chéngzi shì jiǎn gōng, kǒngzǐ mùyù ér cháo, gào yú āigōng, chén héng shì qí jūn, qǐng tǎo zhī, gōng yuē, gào fū sān zi, kǒngzǐ yuē, yǐ wú cóng dàfū zhīhòu, bù gǎn bù gào yě, jūn yuē, gào fū sān zi zhě, zhī sān zi gào, bùkě, kǒngzǐ yuē, yǐ wú cóng dàfū zhīhòu, bù gǎn bù gào yě,
 (陈成子弑简公,孔子沐浴朝,告於哀公,陈恒弑其君,请讨之,公曰,告夫三子,孔子曰,以吾从大夫之后,君曰,告夫三子者,之三子告,不可,孔子曰,以吾从大夫之后,不敢不告也,)
 「陳成子、簡公を弑す。孔子、沐浴して朝し、哀公に告げて曰わく、陳恒、其の君を弑す。請う、これを討たん。公の曰わく、夫の三子に告げよ。孔子の曰わく、吾れ大夫の後(しりえ)に従えるのを以て、敢えて告げずんばあらざるなり。君の曰わく、夫の三子者に告げよと。三子に之(ゆ)きて告ぐ。可(き)かず。孔子の曰わく、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げずんばあらざるなり。」
 (斉の国の陳成子がその主君の簡公を殺したとき、孔子は髪を洗い体を清めて魯の朝廷に出仕されると、哀公にもうしあげられた、「陳恒がその主君を殺しました。どうかお討ちとりください。」しかし、公は「あの三人(魯の実力者、孟孫、叔孫、李孫の三家のこと)にいいなさい。」といわれた。孔子は退出すると、「わたしも大夫の末席についている以上は、申し上げずにはおられなかったのだ。だが、殿さまは『あの三人のものにいえ。』と仰せられた。」といわれ、さて三人のところへ行って話されたが、きかなかった。孔子はいわれた、「わたしも大夫の末席についている以上は、話さずにはおれなかったのだ。」と。)
 ここで、斉の陳成子が主君簡公を暗殺したのは、魯の哀公14年(BC481年)、孔子72歳のときのできごとでした。陳成子の名は恒(または常)といい、斉の大夫で実力者でした。陳氏はこのあと三代目でついに斉の勲位を奪いました。この時代、魯の哀公の権力はすでに弱く、魯の孟孫、叔孫、李孫の三家は、斉の陳氏の立場にあったため、孔子のことばを聞き入れなかったのは当然でした。孔子は、事の重大さと国政に参画・算与する大夫としての責務からとった行動で、話しても無駄だと承知しながらもやったことなのです。