3月23日、砂原やほうしこ抜けばとなながら

 3月23日です。85歳の北村節子シスターのお話を2時間じっくりうかがってきました。元気でした。若々しいお声でした。記憶がしっかりしていて、名前を全部覚えているのには感心させられました。4月からは弘前修道院へ移り、そこで織物をして過ごすとはなしていましたが、好奇心旺盛なシスターのことですから、気が向けばあちこちへ出かけることは間違いありません。東京生まれのシスターは薬学を学び、理科の先生として明の星に赴任し、修道女として教育に生涯をささげてきました。
 土筆は、松山語でホウシコといいます。同じく、杉菜のことはトナということです。

 今日の魯迅箴言365日は、箴言256です。
 希望是附丽于存在的,有存在,便有希望,有希望,便是光明。
 Xīwàng shì fùlì yú cúnzài de, yǒu cúnzài, biàn yǒu xīwàng, yǒu xīwàng, biàn shì guāngmíng.
 「希望は存在とともにあるものです。存在あるところに希望はあり、希望あるところに光明があります。」

 今日の論語一日一章は、論語17-9(論語巻第九 陽貨第十七篇 9章)です。
 子曰、小子、何莫學夫詩、詩可以興、可以観、可以群、可以怨、邇之事父、遠之事君、多識於鳥獣草木之名、
 Zǐ yuē, xiǎozi, hé mò xué fū shī, shī kěyǐ xìng, kěyǐ guān, kěyǐ qún, kěyǐ yuàn, ěr zhī shì fù, yuǎn zhī shì jūn, duō shì yú niǎoshou cǎomù zhī míng,
 (子曰,小子,何莫学夫诗,诗可以兴,可以观,可以群,可以怨,迩之事父,远之事君,多识於鸟兽草木之名,)
 「子曰わく、小子、何ぞ夫の詩を学ぶこと莫きや。詩は以て興こすべく、以て観るべく、以て群すべく、以て怨むべし。邇くは父に事え、遠くは君に事え、多く鳥獣草木の名を識る。」
 (孔子がいわれた、「お前たち、どうしてあの詩というものを学ばないのだ。詩は心をふるいたたせるし、ものごとを観察させるし、人々といっしょに仲よく居らせるし、怨みごともうまくいわせるものだ。近いところでは父にお仕えし、遠いところでは君にお仕えすることもできるそのうえに、鳥獣草木の名まえもたくさん覚えられる。」と。)